No Man Is an Island Book Blog

世界文学を中心に読みあさっては感想を書き連ねています。素敵な本たちを中心に紹介していきます!

響きと怒り by William Faulkner

フォークナーの作品を読むのは今回が2回目。

最初に読んだのはこちら。

riza.hatenablog.com

もう5年ほど前になります。

この作品があまり好きになれなかったので、フォークナーはしばらく読むことはないだろう、と思ってたら本当に5年も縁がありませんでしたわ。

とは言っても、アメリカ文学史の中でも特に評価の高い作家。

ノーベル文学賞も受賞しています。

偉大な文学選集でも、彼の作品はよく出てきます・・・。

 

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どういう話かっていうのをWikipediaより抜粋します。

話の大筋は、かつて南部の貴族的家系であり、南北戦争の英雄コンプソン将軍の子孫である一家の没落である。

フォークナーが戦災を受けた南部の再建時における問題の原因と考えた人種差別、貪欲さ、身勝手さ、および個人が決断する者となるための心理的無能さといった悪徳の餌食になる。

小説に語られる30年かそこらの期間に、一家は財政的に破綻し、信仰心を失い、ジェファーソンの町の尊敬も失い、多くの者が悲劇的な死を迎える。

 

という内容でございます。

読み終わった感想ですが、いやあ、やたら難解な物語だったな〜ということ。

意識の流れの手法が使われていることや、過去と現在が入り混じった語りになっていることなどが、難解たる所以だったと思います。

訳注がなかったら、本当に意味不明と言っても過言ではない部分もありましたね。

原文では、現在以外の部分、つまり過去を回想している部分は、イタリックで印刷されているらしく、今回の翻訳版では太字のゴシック体になっていました。

そのおかげでパッと見現在なのか過去なのかは判断できますが、現在の文章の中に、過去の文章が出てきたりもしますので、読んでてなかなか疲れます。

なぜ、こんな分かりにくい構成にしたのだろう・・・。

と凡人の私は思ってしまいました。

 

コンプソン一家の没落が大筋だとWikipediaには載っていましたが、コンプソン一家の主な人物たちは以下の通りでございます。

 

1. ジェイソン・コンプソン3世・・・一家の家長(お父さん)

2. キャロライン・バスコム・コンプソン・・・コンプソン3世の妻(お母さん)

3. クウェンティン・コンプソン3世・・・長男

4. キャンダス・“キャディ”・コンプソン・・・長女

5. ジェイソン・コンプソン4世・・・次男

6. ベンジャミン・“ベンジー”・コンプソン・・・三男

7. ディルシー・ギブソン・・・召使一家の女家長

8. ミス・クウェンティン・コンプソン・・・キャディの娘

 

他にも召使たちが数人出てきますが、Wikipediaに載っている登場人物をそのまま抜粋しましたw

名前が同じ人がいて最初読んでるとき結構ややこしかった〜。

途中まで来てやっと、登場人物たちの関係性が把握できるようになったぐらいで、読解力が非常に試される小説です。

ディルシーは黒人召使なのですが、自分のことを「おら」と呼ぶし、男っぽい語り口調なので、途中まで男かと思い込んで読んでしまっていた。

最初に女性だってことは書かれているはずなんだけどな。

 

そして、作品は四部に分かれています。

1928年、というのが現在という設定になっています。

 

第一部は、三男ベンジーの語りです。(1928年4月7日)

ベンジーは白痴です。

話すこともできないので、家族からは結構冷淡にあしらわれています。

そんな彼の内的な思考が繰り広げられていくのが、小説の始まりなのですが、ここが最も読みづらい!

いきなりこの読みづらさで来られると、挫折する人が多いんでないかと思う。

現在が主軸で進んでいくのですが、何度も何度も過去のフラッシュバックが起こり、文章が錯綜していく。

ある一つの過去ではなく、色々な時期の過去が出てくるので、まさに混沌!

コミュニケーションが取れない人物なのですが、実はこんなに心の中では思考が渦巻いているんだってことに驚愕もします。

このパートは読むのがきついですが、ここさえ乗り越えれば後の三部は大丈夫です。

 

第二部はクウェンティンの語りです。(1910年6月2日)

彼はハーバード大に通う大学生。

父親や妹キャディとの関係が掘り下げられているように感じました。

このパートが一番好きです。

ハーバード大に通っているだけあってすごく知的な印象を受ける人物で、かつ高潔というか若干潔癖な感も受けました。

このパートも、第一部同様、過去と現在が錯綜しているため読みづらいのは読みづらい。

ただ、ベンジーの語りよりは理解しやすかったかも。

クウェンティンは精神的に病んでしまい、自殺を図ってしまいます。

一番好きな人物だったので悲しいです・・・。

 

第三部は次男のジェイソンの語りです。(1928年4月6日)

第一部のベンジーの語りの前日、ということになっていますね。

第三部と第四部に関しては、現在と過去が錯綜するという文章はないので、やっと普通の小説になった・・・って感じでした。

ジェイソンは結構な荒くれ者のイメージを持ちましたがどうなんでしょう。

一人称も、ベンジーはボク、クウェンティンは僕、ときて、ジェイソンは俺。

語りも「〜だぜ」基調で荒っぽい人物像でした。

キャディの娘で大学生のミス・クウェンティンとジェイソンの争いも顕著でした。

ジェイソンとミス・クウェンティンは全く相いれず。

大学をサボったり、何かと反抗的な態度をとるクウェンティンに対してジェイソンは容赦ない。

ただ、ディルシーがいる手前、なかなか本気で殴ったりまではできない。

ディルシーが守りに入るからですが、それがなければ、もっと罵倒したり暴力したりするんだろうな、そう思えるような関係性。

なぜ、クウェンティンがそこまで憎まれるのか・・・。

 

そして、第四部。(1928年4月8日)

ここは、誰の語りでもなく、三人称になっています。

ディルシーの描写が多かったですが。

彼女がベンジーとともに教会へ行く場面なんかは結構印象的でしたね。

 

最終的には、ジェイソンがくすねていたミス・クウェンティンの金を、彼女本人が奪い返し(盗み)、そのまま家を出てしまうという悲惨な結末。

ジェイソンからしたら自分の金が盗まれたという最悪な結果ではあるものの、警察には詳しく説明できないんですよね、というのも、そもそも彼が、クウェンティン宛の金を着服していたという事実があるからです。

ここら辺も、読み取るのが若干難しかったですけどね。

 

本編の後に、「付録 ー コンプソン一族」と題される部分がついています。

これは作品が出た16年後にフォークナーが書いたものだそう。

コンプソン一家の歴史やコンプソン一家それぞれのその後、黒人召使一家の列挙が続きます。

例えば、ベンジーは最終的にジャクソンの州立精神病院へ送られた、だとか、本編では描かれなかった「その後」がここでは読めます。

 

と、本作の内容を簡単に書きましたが、自分で読んでも分かりにくい文章になってしまった。

それぐらい本作は説明するのが難しい内容だ。

Wikipediaを読んでいただいた方がようく分かるだろうと思います。

 

サンクチュアリ」はあまり好きになれなかった、というか全然好きになれなかったので、この作家はどうだろう・・・って読む前は不安だったけど、「サンクチュアリ」よりは好きになれました。

人種差別とか精神的堕落・崩壊とか知的障害とか性的堕落とか明るくないテーマが散りばめられている作品なので、読んでいて決して楽しくなるような話ではないんですけどね。

特に、ベンジーの登場場面は読んでいて心苦しくなります。

こんな崩壊した家族に生まれるなんて不幸も不幸だな。

 

一番好きな場面は、第二部のクウェンティンの語りのところ。

ここで、彼があるイタリア人の少女と出会う場面があるのです。

ふらっと入ったパン屋さんにその少女はいたのですが、パン屋の女主人はその子がパンをくすねようとした、と思い込むのですね。

それをクウェンティンが必死で擁護して、なんとかその子にパンを持たせてやって店を出る。

クウェンティンはそれで終わり!って思ってたんですが、思いの外その子がクウェンティンを気に入ってついてきてしまう。

彼は大学に戻らないといけないし、その子を家に帰したいのですが、英語が話せないので会話できない。

イタリア人居住区に行ってみても、誰もその子を知らないという。

そんなこんなでクウェンティンもお手上げになり、女の子を道端に残して走って逃げるんですね。

でも、それでもその子はついてきちゃった。

それでどうしたものか・・・となっているところを、その子の父親が警察を連れて追ってきたのです。

父親はてっきり誘拐だと思い込んで。

クウェンティンは警察に連行されますが、仲間の証言などから釈放されて事なきを得ました。

女の子に丁寧にした恩を仇で返されるようなこの展開には憤りを感じましたけど、まあ女の子は悪くないんですけど、でも、最後警察が出てきちゃうまでの二人のやりとりは優しい時間が流れていました。

 

クウェンティンは精神的に病んで自殺してしまう人物なので、一人の少女との間に生まれたわずかながらの絆に、一瞬ですが癒されました。

 

あと印象的だったのは第四部のディルシーがベンジーを連れて教会に行く場面です。

 

「ああ、目のつぶれた罪びとたち、兄弟たちよ、ええだかね、姉妹たちよ、ええだかね、神様がその全能のお顔をそむけなさったからにゃあ、天国はもう、むやみに人を詰め込んではくれねえだよう!

おらには見えるだ、息子を亡くしなさった神様が、入り口のドアを閉めちまうのがなあ、途方もねえ洪水が、神様と人間のあいだに巻き起こるのが、見えるだよう。

暗闇と、それから死が、何代も何代も、いつまでも続くのが見えるだよう。

そしたら、見るだ!

兄弟たち!

そうだとも、兄弟たち!

おらにはいまなにが見えるがか?

なにが見えるだか、罪びとたちよう!

おらには、復活と光が見えるだ。

やさしいイエス様が、おっしゃってるだ。

『やつらがわしを殺したのは、おめえたちがもういっぺん生きるためだで』となあ。

『わしが死んだのは、わしを見て、信じる者たちが、決して死なねえようにするためだで』となあ。

兄弟たち、ああ、兄弟たちよう!

最後の審判の扉がちょびっと開いて、黄金のラッパが、栄光の音を響かせるのが見えるだ、そんとき、聖なる子羊の血と思い出を授かっておれば、人は死んでもよみがえるだよう!」(230ー231)

 

黒人の牧師の説教ですが、このあと歓声が湧き、多くの黒人信者たちが感動した、そんな場面です。

私自身はクリスチャンの友人に誘われて何度か教会に行ったことはあるんですが、牧師の説教は聞いたっけか、覚えていないなあ。

賛美歌を歌ったり、儀式があったりは覚えているんだけども。

南部では特にキリスト教の影響力が大きく、敬虔な信者が多いと言います。

現在はどうなのか分かりませんが、少なくともこの時代はより大きかったんだろうと。

キリスト教の教えもところどころ出てくる本作でしたが、この場面では特に、宗教色を強く感じました。

 

概して、難解な作品だったのですが、読んだ後にじわじわくるタイプの本だな〜と思います。

読んでいる間は、よく分からない描写が多かったり、暗いような内容だったりなので、楽しい!って感じではなかったけど。

読み終わってから、兄弟たちの人生を思うと、なんだか虚無感も覚えるけど、アメリカの家族ってこういう形も多いのかな・・・とか。

 

あと、これは私だけの感想かもしれないけど、ジョン・アーヴィングの作品を思い出した。

作風が似ているわけではないのかもしれないけど、なぜだか。

 

話の内容の面白さとかより、構成の複雑さとか描写の難解さに手こずってしまったので、フォークナーの作品を好きになれるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

 

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (上) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)

響きと怒り (下) (岩波文庫)