No Man Is an Island Book Blog

世界文学を中心に読みあさっては感想を書き連ねています。素敵な本たちを中心に紹介していきます!

コレラの時代の愛 by Gabriel Garcia Marquez

原題: El amor en los tiempos del cólera

1985年出版。

2007年ハビエル・バルデム主演により映画化。

 

ずっと読みたかった本作、やっと読めた!

余韻の残る、読み終わった後から色々な思いがこみ上げてくる。

ノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスによる作品。

 

この作品を最初に知ったのはいつどんなきっかけだったか正確には覚えていない。

高校生の時にもらった現代国語図解みたいな名前の冊子にガルシア・マルケスが載っていたことは記憶している。

タイトルの印象的な感じと、生涯ただ一人の女性を愛し続けた男の物語ということで、すごく興味が湧いて読みたい!って思いながらもなかなか読めずにいた。

しかも!本より先に映画を観てしまった。

映画化されるのを知って、わお!!ってなったのを覚えている。

絶対観に行きたいって思ったのに、結局映画館には観に行けなかった〜。

姉に、この映画を観たいって言ったら、気持ち悪いって言われた記憶もある。

50年以上一人の女性を思い続けることが気持ち悪いって。

 

何はともあれ、最終的には何年後かにテレビでやっているのを録画して観たのだ。

原作を読んでから映画を観ると、特にその原作が好きなものだと、大抵、映画は原作を損ねている!と憤りを感じるものだ。

内容も人物描写も原作と全然違うし!って。

ただ、今回の場合は映画を先に観てしまったので、なんともいえない。

観終わった後の余韻が素晴らしく、結構いい映画だったな〜って思った。

 

ただ、どうしてもここは・・・って思う部分が一箇所。

フロレンティーノ・アリーサというのが主人公の男の名前だが、映画では彼が17歳ぐらいの青年期から70代後半の老年期までを描いている。

最初の青年時代の俳優、名前は知らないが、この人が大人になってから急にハビエル・バルデムになる。

これがあまりにもおかしくて映画観てて、いやいやいや〜おかしいでしょう!って思った。

顔が違いすぎる。

数年しか経っていないはず。それでこんな顔変わったらそれもはや別人やー。

ここで醒めてしまった。

彼は、影が薄い、暗い、地味、老けているっていう描かれ方をしている。

ハビエル・バルデムが17歳を演じるのは確かに老けすぎているともとれるのだろうけど、上記の特徴をみれば、むしろ彼が最初からやってた方が絶対良かったと思う。

老けてる、暗い、地味、そんな感じがハビエルにはバチっとはまっていた。

彼が生涯愛し続けるフェルミーナ・ダーサはずっと同じ女性が演じているのに・・・。

それさえなければこの映画もっと良かったのにな。

しかも、その青年を演じた俳優が、笑顔とかがすごく明るくて、全然フロレンティーノ・アリーサじゃない!

 

ただ、映画自体は良かったよ。

この映画で一番気に入ったのは、ラストシーンである。

そのシーンがあまりにも美しく、素晴らしく、心に残ったので、何度か巻き戻してそのシーンだけ観たほどだ。

その件については後ほど書こう。

 

映画についての話が長くなっちゃったが、本題に移ろう!

映画を観たのが何年前かは忘れてしまったが、とにかく映画も良かったし、原作をいつか読まねばと思い、ようやっとその時が来た。

結構長めの作品なのだが、面白かったので、全然苦痛じゃなかった。

 

フロレンティーノ・アリーサが17歳ぐらいの時に、一目惚れした女性フェルミーナ・ダーサに熱列なアプローチをして、最初こそ拒否していた彼女もその情熱と勢いに押されて一度は受け入れるものの、若い女性(まだ14歳ぐらい)特有の移り気と冷淡さで、久しぶりにあった彼を観てその姿に失望し、180度態度が翻って全面拒否。恋に破れ絶望するフロレンティーノ・アリーサをよそに、町一番、裕福な成功者である医者フベナル・ウルビーノ博士とフェルミーナは結婚。ますます絶望に陥るフロレンティーノ・アリーサだったが、フェルミーナを愛し続け、ウルビーノ博士が亡くなった時に、もう一度彼女に愛を告白しようと決意し、その後五十一年九ヵ月と四日間、待ち続けるという物語である。

 

すごい・・・と思う人もいれば、気持ち悪い・・・と思う人もいるかもしれない。

ただ、私は映画を先に観ており、ハビエル・バルデムの演技が良かったこともあってか、全然気持ち悪いとかは思わなかった。

むしろ、ただただ彼が、不憫で哀れで仕方なかった。

 

物語は最初ウルビーノ博士の描写から始まる。

ウルビーノ博士の友人が自殺する場面、その友人の葬式、そしてウルビーノ博士の妻としてフェルミーナ・ダーサが登場。

博士と妻の結婚生活の描写もいくらか続き、そしていよいよウルビーノ博士の死へと。

博士は、木の上に登ってしまったオウムを捕まえようとハシゴに乗っていたのだが、ハシゴの足が崩れ、地面に落ちてしまう。

即死ではなかったが、その衝撃で結局命を落としてしまった。

夫の突然の死に、動揺を隠しきれないフェルミーナ。悲しみに打ちひしがれて、葬式を終えた彼女の元に、フロレンティーノ・アリーサが現れた。

フェルミーナ」・・・「わたしはこの時が来るのを待っていた。もう一度永遠の貞節と変わることのない愛を誓いたいと思っている」(82)

この時点で、もはや彼への感情など良くも悪くも一切抱いていなかった彼女は、夫が亡くなりまだその傷も癒えていないようなこんな時に、そんな言葉を発する彼を驚愕の眼差しで見つめ、また軽蔑の思いを込めて「出て行って!」と激しく拒絶する。

そして「もう2度とこの家の敷居をまたぐな!」とも。

 

最初にこのフロレンティーノ・アリーサとフェルミーナ・ダーサの再会が描かれるが、この後に過去へと遡る、という構成になっている。

この二人の間にはかつて何が起こったのか?それが語られてゆくのだ。

先に述べている部分もあるが、フロレンティーノ・アリーサはフェルミーナに一目惚れ。

手紙で猛アタックした甲斐もあり、彼女の方でも彼を気に入り、厳しい父親の目を盗みながら、文通で交流を深める。

しかし、村一番の富裕者と結婚させ、娘を幸せな結婚に、そのためだけに生きてきたような父親は、夢見がちな庶子フロレンティーノ・アリーサに娘を取られてなるものかと徹底的に彼を排除しようとする。

しかし、フロレンティーノ・アリーサの確固たる彼女への思いを知り、彼が諦めないことを悟った父親は、フェルミーナを連れて1年間旅に出ることにする。

その間一切二人が会えなければ、娘の気持ちもなくなると信じて。

だが、フロレンティーノ・アリーサは郵便事情に通じていたこともあり、なんとかフェルミーナの居場所を突き止め、彼女に手紙を送り続ける。

結局二人はどれほどの距離で隔たれていても、その愛を貫き通したのだ。

 

そんなことを知らない父親、とっくにあの男のことなど忘れている、そう安心して街に帰ってくる。

しかし、やっと彼と一緒になれる!と喜び勇んでフェルミーナは彼と結婚して必要になるであろう様々な道具一式を買いこみに市場へ出かける。

 

フェルミーナが帰ってきたことを知り、心躍らせるフロレンティーノ・アリーサは、彼女が市場に行くのを見て、後を追う。そしてようやく彼女の近くまでたどり着き、その耳元で囁く。

「ここは冠をいただいた女神が訪れるのにふさわしい場所ではありません」

 

振り返ると、すぐ目の前に氷のような眼、蒼白の顔、恐怖で引きつった唇が見えた。深夜ミサの人ごみの中ではじめてそばで彼を見たときと変わっていなかったが、あのときと違って心の震えるような愛情ではなく、底知れない失望を感じた。

その瞬間、自分がとんでもない思い違いをしていたことに気づき、どうしてこんなにも長い間激しい思いを込めて心の中で恋という怪物を養い育ててきたのだろうと考えて、ぞっとした。・・・・・・・

・・・・・・何度か顔を合わせたが、二人きりで会うことも、二人きりでしゃべることもなかった。彼女が未亡人になった最初の夜に、ふたたび永遠の貞節と愛を誓った。それは五十一年九ヵ月と四日後のことだった。(154-155)

なんて残酷なのだろう!!!

彼女が彼を拒絶し、その後別の人と結婚、それはあらすじですでに知っていたし、映画でも観ていたのだがら当然知っている。

しかし、それでもやはり、このシーンを読むと、そのあまりの残酷さに言葉を失ったほどだ。

フロレンティーノ・アリーサは確かに、暗くて地味で不気味な部分も兼ね備えてはいる。

フェルミーナへの愛情も一途で純愛で素晴らしいが、行きすぎた感もあり、怖い部分もある。

とは言え、手紙でひたすら彼女への愛情を綴り続け、そして何と言っても彼女の方からも同じような激しい愛情の返信が届き続けていたのだから、あまりにも突然その愛が崩れ去るこの結果はあまりにも哀れすぎる。

詩人的で、叙情的、夢見がちで、現実らしさがないフロレンティーノ・アリーサは明るいモテるようなタイプの男性ではないが、真面目で愛情深いいいやつなんだ。

それは読んでいてよくわかるんだよ。

だから、本当にここの場面はサッと血の気が失せるぐらい、かわいそうな場面。

フェルミーナは彼の顔を知っている、それなのになぜだろう。

初めて会ったわけではないのにね。

彼女が彼を見て抱いた失望とは?

他に好きな男ができたわけでもないのだ。

もちろん、人の気持ちとは現実世界でもこのように、移ろいやすく、決して確かなものではない。

愛した人のことを憎むことだってあるだろう。

そう考えれば、あまり相手を知らないまま、恋に恋していた彼女が、突如現実を突きつけられて、違った・・・。と思うのもありえない話ではない。

ただ、フロレンティーノ・アリーサの愛情が本物だっただけに、悲しい。

 

彼女から完全拒絶された彼は絶望。

 その日から失意の日々を生き続けるが、延べ622人もの女性と関係を持ち、五十一年待ち続ける様子が描かれる。

それと交互に、フェルミーナとウルビーノ博士との結婚生活も描かれていく。

なかなか壮大かつ重厚な読み物である。

 

彼はフェルミーナとの恋に破れたあの日から、もう一度彼女に愛を誓う51年もの間に、622人の女性と関係したという。

622人って異常な数だと思う。

しかし、この話をすると、気持ち悪いと言っていた姉は、案外気持ち悪くないね、と。

つまり、姉の意見では、50年間一人の女性を片思いし続け、誰とも関係を結ばず、童貞を守りきる、その方が何倍も気持ち悪い、ということだ。

ある女性を魂あるいは精神としてずっと愛し続けてはいたが、それ以外の女性とも関係を持っていた、その方がよっぽど健全、ということであろうか?

にしても、622人は異常である。

そして、この描写を見て、全然純愛じゃない、とか、高潔で崇高な永遠の愛じゃない、と思う人もいるようだ。

私も、ここは少し頭を抱えた部分である。

ただ、この本を読みきった今、いや、フロレンティーノ・アリーサの純愛を否定することはできないのではないかって、思えてきた。

愛した人がいる、しかし、その人は自分を愛さなかった、いやむしろ拒絶された。

そして、自分より裕福で地位もあり、ハンサムで男性的に魅力的な男と結婚、幸せな家庭を築くのをまざまざと見せつけられた。

それでも、誰とも関係を持たず、一人でその失恋の絶望に耐え抜き、癒される事なく、その愛情を貫け!それでこそ純愛だ!一途だ!とでもいうのか。

それではあまりにもかわいそうじゃないか。

彼の絶望は、きっと世の大失恋を経験した人には誰だって分かるほどのものだろうに。

その痛みを癒すために、誰かと関係を持つ事ぐらい、許されるべきことではないだろうか。

それで、全然愛なんかじゃない、というのは、違う気がする。

もちろん、そうは言いつつも622人て・・・と苦笑せずにはいられないが。

ただ、なぜ彼はそこまで多くの女性と関係を持たなければならなかったのか、ということに目を向けたい。

彼がここまで多くの女性と関係し続けた理由は、ただただフェルミーナとの愛敗れた絶望を癒すためであったのだ。

でなければ、彼はとっくにまた別の誰かと愛しあい、その人と生きていくことを選択できただろうから。

どれだけ多くの女性と関係を持っても、彼の心は結局最後にはフェルミーナの元へ戻ってしまう。

それがわかっているから、彼は他の女性と関係を持ち続けながらも、本当の幸福には至ることが出来なかった。

 

矛盾といえば矛盾だろう。

そしてフェルミーナへの愛の為に傷つけた女性もいたことだろう。

愛する人を思い続ける、しかし夫がいて幸せな結婚生活を送っているその人を思い続けながら、ただ一人きりで生きていけるほど、彼は強くはなかったのである。

むしろ、彼はあまりにも人間的な弱さを兼ね備えた人物なのである。

 

本作の中で、一番印象的かつ悲しいと思ったセリフ。

つまり、人は同時に何人もの人と、それも誰一人裏切ることなく、同じ苦しみを味わいつつ愛することができるという教えを学んだのだ。・・・

《人の心には売春宿以上に沢山の部屋があるんだ》。(391)

 

ある時、一時的に彼の街に来て、音楽を教えに来た女性とも関係を持った。

しかし、彼女は自分の仕事を終えると、あっさりその街を去ってしまった。

彼はその女性を特に愛したということもあり、彼女があっさり自分を置いていくことに悲しみと同時に怒りも感じた。

その時、彼は一人こうつぶやく。

恐らく、この女性にも、他に男はいくらでもいたのだろう。

フロレンティーノ・アリーサとは一時の関係にすぎなかったのだ。

裏切ることなく、この言葉はどういうことか。

もし、結婚していれば、他の誰かと関係を持てばそれは裏切りになるだろう。

しかし、ある意味自由恋愛を楽しんでいた彼にとっては、いくら同時に多くの女性と関係をしていてもそれは誰への裏切りともならない。

だからこそ、相手にだってそれは求めないはずだ。

それでもやはり、彼は悲しかった。

人の心の不誠実さ、愛していると口では言いながら、あるいは態度で示しながら、心のどこかでは他の人を想っていたりする、そんな矛盾に涙したのに違いない。

フロレンティーノ・アリーサの心にもそれこそ数えきれないほどの部屋があったのだ。

ただ一つ、フェルミーナのための部屋だけは、生涯最も大切に、そして誰からも侵されることなく守り続けていたのだろう。

愛とは一体なんなのか、本当に頭を抱えてしまいたくなるような難題を、このセリフは我々読者に突きつけているような気がしてならない。

 

物語を全編読み切った後に、感じること、それは622人もの女性と関係を持つことで、彼の愛はまったく神聖ではないし、純愛ではない、という疑問を覆すものだった。

純愛であるからこそ、622人なのだ。

むしろ、彼女を待ち続けた間、数人との関係で済んでいれば、その恋愛にある程度満足していたことを意味するだろう。

しかし、一度も満ち足りることがなかった。

これだけの女性と愛し合っても、本当の意味で幸せになれなかった。

 

どれだけ他の人と関係を結ぼうとも、毎日フェルミーナのことを想い続け、51年一度もその愛が揺らぐことがなかった、それはやはり現実ではとても考えられないようなすごいことである。

普通なら、622人もの女性と関係を持ったならば、その間に、51年前にたった一時期文通で愛情を伝え合った、ただそれだけのはかない愛情は、淡い思い出としては残ったとしても、熱烈な愛情は消えてなくなるものではないだろうか。

しかし、彼は一度も忘れなかった。

ただの一度も。

これを狂気と呼ぶのか、愛と呼ぶのか。

その判断は読者に委ねられるのだろう。

 

そして物語はいよいよ終盤に入る。

ウルビーノ博士の死の場面に戻って来るのである。

博士の死を知ったフロレンティーノ・アリーサは、とうとうこの時が来たと、心臓が激しく打つのを感じた。

不謹慎であることは承知だったが、この機会を逃すと一生を無駄にすると思った彼は、フェルミーナに永遠の愛を誓った。

当然、フェルミーナは激昂。

彼に2度と目の前に現れるなと罵る。

 

その後、フロレンティーノ・アリーサは謝罪の手紙を送る。

フェルミーナはその手紙に対しても激しい憎悪と罵倒を書きなぐり、返信した。

 

さて、その後どうなったのか。

まだ読んでいない人は、この先は読まないことをおすすめする。

 

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フェルミーナからは最初の怒りの返信が来たっきり、返事はなかったが、彼はひたすら彼女に手紙を書き続けた。

最初に愛した、あの頃のように。

やがて、フェルミーナの心に変化が起きる。

彼の手紙に書かれていることが、単なる上部だけの薄っぺらい愛の告白ではなく、人生を真剣に生きる一人の成熟した人間の思想、そして彼女がそれに共感できるような考え、そういったものに満ち溢れていたことから、彼女は、ようやくフロレンティーノ・アリーサの本当の姿に気づいていくのである。

そして、彼女の心が決定的に変わる場面がある。

ウルビーノ博士の死後、彼女が親友だと思っていた女性と博士との不倫を報じる記事が出回ったのだ、それだけでも打撃だが、さらに彼女の父親の生前のあらぬ噂まで記事になり報じられる。

道理を外した闇の仕事を暴露するような、そんな彼女の名誉を傷つけるような記事であった。

そのような誹謗中傷を受け、ひどく傷ついた彼女であったが、別の新聞か何かで、そのような記事を高々と報じた記者や新聞社に対する痛烈な批判、理論的に非難する記事が掲載されるのを彼女は見る。

彼女はその文章を読み、彼は何も言わなかったが、それがフロレンティーノ・アリーサによるものだと確信した。

彼がそれまでの手紙でずっと書き続けてきた思想と重なる部分だけでなく、同じ文章まで見つけた時に、彼がここまでして自分を守ってくれることに衝撃を受けた。

 

そして、ようやく彼女は、彼を受け入れることになる。

彼女には息子一人、娘一人がいた。

息子夫婦は、年老いた二人の恋愛を暖かく見守っていたが、娘は違った。

未亡人である母親が、分をわきまえず、うつつをぬかして恋愛していることに激しい嫌悪を抱いたのである。

フロレンティーノ・アリーサを非難する娘に、かつて彼を拒否し続けた彼女の言葉とは思えない決然とした態度で、彼女は完全に彼を擁護する。

実の娘以上に、フロレンティーノ・アリーサへの愛情と信頼が勝った瞬間であった。

 

《一世紀も前の話だけど、昔あの気の毒な人と付き合っていたときは、若すぎるというので、何もかもぶち壊しにされて、今度は今度で年をとりすぎているという理由で、また同じことが繰り返されようとしているのよ》。(467)

この事件を機に、娘とはほぼ絶縁してしまうことになるが、彼女は上記の言葉を吐く。

なんと悲しい胸に刺さる言葉だろう。

若い時には、若くて何も分かっていないからとその恋愛を否定され、年をとれば、今度はその年齢で恋愛することをまるで悪事のように責めたてられる。

ある一定の限られた時間でしか、本気の恋愛は許されないのか。

それではあんまりだ。

あれほど彼を拒絶していた彼女が、これほどまでに彼への想いを強めていく姿に感動を覚えた。

 

最後、フロレンティーノ・アリーサはフェルミーナを船での旅行に誘う。

彼女はその誘いを受け入れ、51年をかけて、二人はとうとう結ばれた。

 

とにかく、言葉を失うぐらいの、そんな壮大な恋愛詩である。

途中、フロレンティーノ・アリーサがあまりにも多くの女性と関係する描写を読み続けるわけだから、本当に彼はフェルミーナを愛し続けているのだろか?って疑問に思うことも当然ある。

体の関係だけと割り切っているならまだしも、中には本当に愛したと、彼がそう自分ではっきり言っている関係もあるぐらいなのだから。

それでも、なぜ、その人と一緒にはなれなかったのか。

そこが難しいところだ。

先の、人の心にはあまりに多くの部屋がある、というあの言葉通りなのだろうか。

人は、ある人を本当に愛していると分かっていながらも、一旦その部屋を離れて、別の部屋で、別のだれかを愛することもできてしまうのだろう。

それはある意味当然で、ある意味悲しく、ある意味虚しい現実である。

愛した女性が多ければ多いほど、それは言い換えれば、本当には誰も愛さなかったのと同じではないだろうか。

 

ただ、彼のすごいところは、フェルミーナを愛し続けながらも、彼女が結婚し、人のものになった瞬間、パッタリと彼女を諦めたところである。

もちろん、その愛情を捨てたわけではない。

しつこく愛情を告白し続けるとか、夫から奪ってやろうとか、彼女の結婚生活を壊そうとか、そんな気は一切なかった。

事実、フェルミーナはあまりにもあっさりとフロレンティーノ・アリーサが自分を諦めたことに、逆に驚き、逆に騙されたとすら感じてしまうのであるから。

 

フェルミーナは何度も、フロレンティーノ・アリーサを影の薄い残念で気の毒な男、と称するが、彼の本当の姿を知るのに、ここまでの時間をかけなければならなかったのは残念なことだ。

フロレンティーノ・アリーサは確かに、地味で暗い印象のある男ではあるが、彼を愛した女性たちも数多くいた。

その愛が本物であれ、一時的なものであれ。

彼は決して人から愛されないような人間ではなかった。

ここまでの愛を貫き、彼女のために生きたような彼を、あの若い頃に、彼女も愛せてさえいれば。

622人と関係したことを異常だと捉え、おかしいと嫌悪感を抱く女性も多いことだろう。

しかし、彼のフェルミーナへの叶わぬ愛を思うとき、その行為の本意が見えてこないだろうか。

 

 彼女への愛があまりにも大きかったからこそ、それを得られなかった絶望と心の傷を埋め合わせるためにはそれほどの行為が必要であったのだと。

 

映画は、あるセリフで閉じられる。

映画も本もラストが肝心だといつも思うのだが、この映画はそのラストシーンが印象的で素晴らしかった。

映画のオリジナルで、原作では出てこなかったらどうしよう、と不安になりながら読んでいたら、ちゃんとそのセリフが出てきた。

しかし、ちょっと違う形で。

この部分に関しては、映画の方が秀でていた。

覚えてはいるものの、一言一句ははっきりしていないから、今度また映画を観て、セリフをちゃんと書きとめてから、ここに追記することにしよう(笑)

 

映画は、原作を読んだ今、きっとまた何か違った見方ができるように思う。

あとは、何と言っても、ハビエル・バルデムの演技が良かった・・・。

大の大人が愛のために、ここまで泣く姿。

本当に本当に彼女を愛していたのだろうな、それが痛いほどに分かる姿。

ここまで深く誰かを愛する、それはコレラのような熱病に浮かされる苦しみであったと同時に、その苦しみを生き抜くための力をもたらしてくれるものでもあった。

 

コレラの時代の愛

コレラの時代の愛