No Man Is an Island Book Blog

世界文学を中心に読みあさっては感想を書き連ねています。素敵な本たちを中心に紹介していきます!

シャーロット・ブロンテ論 by 中岡 洋

中岡氏を含む、20名近くの研究者たちがそれぞれの自論を展開していく形式の本である。
ジェーン・エア』だけではなく、シャーロットの生い立ち、父との関係、結婚についても色々知ることができてよかった。
早くに母と2人の姉を亡くし、三女だったシャーロットは長姉となり、弟、妹エミリー、アンの面倒も見ることになる。
悲しい上に、重い責任も担うこととなり辛かっただろう。
父との関係は良好だったようで、それがせめてもの救いである。
彼女の他の作品、『教授』、『シャーリー』、『ヴィレット』についても少しながら知った。
ジェーン・エア』でもだが、他作品でも女性の社会的自立とか、男女の恋愛、結婚がメインテーマになっていたようだ。
でも、どの作品も『ジェーン・エア』ほどの完成度ではなかったみたい。

コンスタンタン・エジェという先生とベルギー、ブリュッセル留学時代に出会い、シャーロットは恋心を抱いたようだが、既婚者だったため失恋。
この失恋は相当痛手だったようだ。
シャーロットは『ジェーン・エア』作品同様、尊敬できる師のような人が恋愛対象だったのであろう。

ジェーン・エア』解説の章では、なぜジェーンはソーンフィールドを去ったのか、そしてまた戻ってきたのか?という問題が取り扱われていたがこちらがとりわけ印象深い。
ジェーンはエドワードに妻がいると知り、裏切られたとも感じたし、怒りも覚えた。
ジェーンは、エドワードの罪を許し、包み込めるほどの大人ではなかったし、自分の方が大事だった。
だから去ったのである、とか。
あるいは、法や正義云々で自分がエドワードの元を去ることを正当化しつつ、妻が死んだことを知らないながらも、状況が変わっていないにも関わらず、またエドワードの元へ戻る行為は、ジェーンが法とか正義とかを守るために彼を去ったというのは言い訳でしかない、とジェーンに厳しい見方をする論文もあったが、私は反論する!!!
ジェーンが去ったのは、確かに彼女の弱さゆえではあろう。
法や正義のことを引き合いに出すのも確かに正当化かもしれない。
ジェーンは傷ついたこと、妻のいるエドワードの元に留まることに何か、言葉では言い表せない不安や恐怖を覚えた。
戻ってきたのは、セント・ジョンとインドへ旅立つ前に、生きて会えるのはおそらくこれが最後になるだろうとの思いで、ただ一目、最後に見たかっただけで、何もまたロチェスターと一緒になれるとは、ゆめゆめ思わなかったはずだ。
自立した今だからこそ、一個の人間として会える。そうも思ったのかもしれぬ。

狂女バーサをもう一人のジェーンと見る解釈も面白かった。
ジェーンとエドワードの未来は明るいのか?と疑いを持つ学者は多いらしい。
ジェーンとエドワードは2人でひっそりと暮らす、つまり社会から引き離された状態が続くかもしれない。
これでは、かつて社会へ出たい!と強く願ったジェーンが、いずれ嫌になってしまうだろう、とのことである。
ここでもまた私は反論させていただく!!
ジェーンは一度は自分自身の生き方を貫くために最大の愛、ロチェスターを捨てた女である。
そしてセント・ジョンらとの交際の中で、社会の中で生きていくことを学び、大金も手に入れ、自立した。
さらには、現代でいう仕事のできる女として、セント・ジョンからは求婚までされるのだ!
(愛はないが、これは社会から仕事ができる人間という意味で、認められたことに等しい)
これこそ、自立や社会の進出を願ったジェーンの幸せな人生だ!
とはならなかった。
ジェーンは仕事のできる女としては認められたが、もっと大事なこと、そう一人の人間として、また一人の女性としては認められなかったし、愛されもしなかった。
その時に、ジェーンは自分を一人の人間として、また女性としてあんなに深く、真剣に愛してくれたエドワードがどれだけ素晴らしい存在だったのか、またそんな真実の愛を自分を守るためただそれだけのために、捨ててしまったことが、どれだけ愚かしいことだったのかに、やっとの事で気付くのである。
一緒になれる望みはないが、ただ一目、生涯でただひとり本当に愛した人、そして愛してくれた人を最後に見るために、彼女は戻った。
もう、自分の尊厳が大事だ、という信念もおそらく変わりつつあっただろう。
もし、まだエドワードが私を愛してくれているならば、今度こそ一緒に罪深いことでさえも受け入れ生きていく、そんな覚悟すらあったように思う。

セント・ジョンは社会のような存在だ。
社会に役立つものとして、ジェーンは認められたのだ。
しかし、そこには人間性や存在への愛はない。
女性の社会進出、自立は確かに女性の幸福を築き上げるのに必要な手段である、がしかし、それ自体が目的になりえるだろうか。
これは、男女ともに関係なく言えることであると思う。
人間は、能力を認められることよりも、存在そのものを認められた時に、初めて本当の喜び、愛を知るのではないだろうか?と。
社会で認められる以上に、たった一人のだれかに、人間として、女性として、あるいは男性として、愛されることの方が、人間の幸福だとシャーロットは描いたのではないだろうか。

作者自身を投影しているであろうジェーン・エア、また彼女の憧れの人エジェを投影しているであろうロチェスター
現実では一緒になることのなかった自身の悲恋を、せめて作品の中だけでは、そう思ったに違いないと私は思えてならない。
ゆえに、ジェーンとエドワードの未来を暗く希望のないものに描くはずはないと私は信じて疑わない。

シャーロット・ブロンテ論

シャーロット・ブロンテ論