No Man Is an Island Book Blog

世界文学を中心に読みあさっては感想を書き連ねています。素敵な本たちを中心に紹介していきます!

動物農場 by George Orwell

ジョージ・オーウェルは2作目。

前回は彼の傑作と言われる『一九八四年』を読んだ。

riza.hatenablog.com

この一作で、オーウェルが大好きになったから、別のものも読んでみたくなった。

『一九八四年』は長編小説だが、今回の『動物農場』は大分短めだ。

だから、オーウェルの作品で一番最初に読むには、こちらの方がいいかもしれない。

 

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あらすじ

飲んだくれの農場主ジョーンズを追い出した動物たちは、すべての動物は平等という理想を実現した「動物農場」を設立した。

守るべき戒律を定め、動物主義の実践に励んだ。

農場は共和国となり、知力に優れたブタが大統領に選ばれたが、指導者であるブタは手に入れた特権を徐々に拡大していき・・・・・・。

権力構造に対する痛烈な批判を寓話形式で描いた風刺文学の名作。

 

とにかくオーウェルはこういった作家なんですね。

批判精神の塊、特に権力とか政治とか独裁とかに対する。

場合によっては、何をされるか分からないぐらいですが、それでもこう言った作品を世に出そうとする作家、文学者ってやっぱり尊敬します。

 

内容も面白かったです。

老メイジャーというブタが、非道な人間にこき使われ働かされ、ギリギリの食糧しかもらえず常にひもじい思いをしている家畜たちの運命を憂い、打倒人類を掲げた立派な演説を披露します。

その後、老メイジャーは平和に死を迎えますが、彼の演説を確かに心に強く残したブタたちが中心となり、ある日農場主ジョーンズを動物たちで協力して蜂起を起こし、追い出してしまいます。

この時、中心となったのが、スノーボールとナポレオンというブタでした。

後にこの二匹が動物たちが守るべき「七戒」たるものを作り出し、壁に掲げます。

 

[七戒]

 

1. 二本足で立つ者はすべて敵。

2. 四本足で立つか、翼がある者は友。

3. すべての動物は服を着てはいけない。

4. すべての動物はベッドで寝てはいけない。

5. すべての動物は酒を飲んではいけない。

6. すべての動物は他のどんな動物も殺してはいけない。

7. すべての動物は平等である。

(32)

 

この七戒は、なかなかご立派で、これが本当に守られるならば、人類という敵から自分たちを守り、絶対平等な動物社会を築いていける、そう思えるのですが。

のちに、この七戒は、機会があるごとに微妙にその文言が変わっていくのです。

それは非常に恐怖ですが、読み進めていくと、あまりに自然に変化していくので、動物たちも気づけないのです。

 

基本的に、動物農場で主格となるのは、スノーボールやナポレオンなどのブタたち。

彼らは読み書きも覚え、知識も豊富であるとされます。

だからこそ、七戒を作り出すことができたのです。

そして、

 

熟考の末、スノーボールは七戒が実質的には一つの格言に還元できるのだと宣言しました。

それは「四本足はよい、二本足は悪い」というものです。(41)

 

この「四本足はよい、二本足は悪い」という言葉は、ヒツジたちがことあるごとに集団でうるさく繰り返す言葉です。

この作品で一番印象に残っている言葉の一つですね。

 

その後、反乱が起こります。

というのも、ナポレオンからするとスノーボールが鬱陶しい存在になったんですね。

二匹は相容れない存在となり、犬やらを味方につけたナポレオンがスノーボールを追い出してしまいました。

 

スノーボール追放後、動物農場はだんだんとその様相を変えていきます。

不吉な雰囲気が漂ってくるんですね。

最初こそ、人間を追い出して、動物たちだけの自由で豊かな生活が訪れると信じていた家畜たち。

しかし、結局は一部の権力あるブタたちが、今度はかつての農場主のようになっていく。

それはまさに独裁政治そのもの。

ブタたちだけが、豊かに肥えていき、働く家畜たちの元へは十分な食糧が行き渡らない。

なぜこんなひもじい思いをしているのだろう?と多くの家畜たちは疑問を抱くが、どこかでこれでいいのだ、と諦めてしまう。

否、ジョーンズがいた頃よりはマシだ、ジョーンズに戻ってきてほしいのか?というブタたちの言葉にはぐうの音も出ない。

 

やがて、その独裁的農場はどんどん悪化して行きます。

あるとき、スノーボールに加担していたとして自白した何匹かの動物たちが処刑されてしまうのです。

そんな時、恐れを感じた動物たちは七戒の一つを思い出しました。

 

6. すべての動物は他のどんな動物も殺してはいけない。

 

しかし・・・

 

クローバーはベンジャミンに、戒律の六番目を読んでくれと頼みました。

そしてベンジャミンはいつもながら、自分はそういう話には関わらないと述べると、ミュリエルが呼ばれました。

ミュリエルは戒律をクローバーのために読み上げました。

そこには「すべての動物はどんな動物も理由なしに殺してはいけない」と書かれていたのです。

なぜかはわかりませんが、「理由なしに」という言葉が動物たちの記憶からは抜け落ちてしまっていました。(101)

 

恐ろしいことです。

絶対変えられないと言われていた七戒は、ブタたちの都合の良いように変えられていた。

しかし、愚鈍な動物たちは、何かがおかしい、と勘づくのにも関わらず、結局騙されてしまうのです。

自分たちで考える力、蜂起する力が彼らにはない。

だから、独裁者が一番悪いのですが、それを許す環境も、もしかするとあるのかもしれない、というのはこういう場面から見受けられるのです。

 

そして・・・

農場は相変わらず荒涼とした感じを見せ、多くの動物たちは弱っていく中で、再びこのような場面が出てきます。

またしても、クローバーが、七戒を読んでくれ、とベンジャミンに頼むのですね。

 

今回だけは、ベンジャミンは自分のルールを破り、壁に書かれたものを読み上げてやりました。

いまやそこには、戒律が一つ書かれているだけで、他に何もありませんでした。

その戒律はこうです。

すべての動物は平等である。

だが一部の動物は他よりもっと平等である。(147)

 

さて、最後どうなるのかまでは書きませんが、オーウェルの作品らしく最後まで怖いです。

決して、希望のあるような結末にはしないんでしょうかこの作家は。

それでも、だからこそ痛烈な批判、風刺というものに徹底しているのだろうけど。

ゾッとするその結末はぜひ、読者の方たちに読んでいただきたいと思います。

 

本編の最後に、オーウェル自身の序文が収録されています。

この序文を読めば、かなり彼の書きたかったこと、言いたかったことが分かりますので、必読だと思います。

動物農場』って結局は何が言いたいの?なんの話?って背景を知らない人はそう思ってしまうかもしれない。

私も知らなければ、なんだこれは?で終わってしまった危険性がありますが、これは、ソ連社会主義スターリンの独裁政治に対する風刺小説です。

ブタの老メイジャーはレーニンを、スノーボールはレーニンの主要な部下の一人であったトロツキーを、ナポレオンはもう一人の主要な部下であるスターリンを、そして動物農場は、ソ連社会主義国家そのものを、それぞれあらわしている、のだそうです。

実際、スターリンは、トロツキーを国外追放したそうですし、国民が飢え苦しんでいる一方で、スターリンをはじめとする権力者たちはブタのように肥えふとり、権力をほしいままにしていった・・・。

まさに、スターリンソ連の辿った道を忠実にリアルにそれでいて寓話的に描いたのが本作なのですね。

 

そう考えて読むと、なかなかの凄みを増してくるように思います。

それを知らないで読んでも、恐ろしい恐怖世界の話だと感じます。

が、実際にこんなことが人間の世界で起きていたんだということ、それがつまりは独裁政治ですが、そんなことが起こっていたということを、当時の人はもちろん現代を生きる私たちも、改めて知っておかねばならないと思うのです。

 

オーウェル自身は実は、社会主義者であるということもまた、大事なポイントだと思います。

彼は、社会主義そのものを悪だと断罪したわけではない。

むしろその逆だと言います。

 

訳者あとがきより抜粋します。

まず、オーウェル自身は本書をソ連、特にスターリンによる社会主義の歪曲に対する戯画化として描いている。

でも、それは決して社会主義そのものを否定するためではなかった。

むしろ、ここで描かれたような歪曲を是正し、社会主義を正しい道に引き戻すことこそがオーウェルの意図だった。(200)

 

こう見ると、この作品は、社会主義そのものを否定した作品だ!と断言してしまうのもまた間違いなわけです。

オーウェル社会主義を理想的な社会の形であると信じていたのでしょうね、きっと。

だからこそ社会主義という名の下に、権力を振りかざして国民を苦しめるソ連や独裁者たちが許せなかったに相違ない。

また、彼は序文にて、母国イギリスのあり方にも痛烈な批判を寄せています。

 

イギリスの知識人は、その臆病ぶりと不正直さについてあれこれ理由を持ち出すだろうし、かれらが自分を正当化するときに使う理屈なんか暗唱できるくらいだ。

でも少なくとも、ファシズムから自由を守るためとかいうナンセンスはもう願い下げだ。

自由というのは何を置いても、みんなの聞きたくないことを語る権利ということなのだ。

一般の人々はいまでも、漠然とこの教義を支持しているし、それに基づいて行動している。

私たちの国では--------あらゆる国で同じではない。共和国時代のフランスではちがったし、いまのアメリカでもちがう--------自由を恐れているのはリベラル派なのであり、知性に泥を投げつけているのは知識人だ。

私がこの序文を書いたのも、この事実に注目してもらうためなのだ。(173ー174)

 

ソ連社会主義国家のみがオーウェルの批判の対象ではないのでしょうね。

実際、本書を出版するのに、多くの出版社から断られたようです。

言いたいことを言えないような言論の自由を奪われた世の中に対する怒りというのも感じられる言葉かと。

この序文は是非とも全文を読んでいただきたいですね。

 

社会主義国家は、かつてのソ連をはじめなんだか怖いイメージを持ちがちですが、だからと言って民主主義国家が成功しているとも思えない。

どちらにもメリットもあればデメリットもあるのだろうし。

政治ほど難しいものはないのではないかと思いますね。

すべての国民が平等である、ということが絶対に守られるような社会のあり方って、今まであらゆる思想家、作家、政治家、活動家たちが知恵を振り絞って話題にして考えてきたことなのに、未だにそれを実現できている国はほとんどないのですから。

個人個人の幸福というのは、社会そのものが決められることではないけれど、少なくとも経済的、物質的な安定、平等というものは約束されたいものだ。

それがあって初めて、人間は安心して夜寝られるのだから。

 

とにかく、ジョージ・オーウェルは本当に素晴らしい作家だと今回もまた改めて感じることができました。

 

 

 

 

 

彼らの目は神を見ていた by Zora Neale Hurston

いつも読む本を選んでいる、世界文学リストから見つけた本。

作家も作品のことも全然知らなかったけど。

まず、図書館に置いてないだろうなとすら思ったが、なんと置いてあったわ!

 

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あらすじ

ジェイニーは故郷を捨て、愛するティーケイクのいるフロリダのイートンヴィルヘ行くが、ある日、突然、不幸がやって来る・・・。

1920年代、黒人文化が花開くニューヨーク・ハーレム・ルネサンスに登場した天才女性作家の代表作。

Amazonより抜粋)

 

あらすじが大分、雑な気もするが・・・。

ゾラ・ニール・ハーストンはアフリカ系アメリカ人である。

長年、彼女もその作品も、絶版になっていたりで、見捨てられていたらしい。

が、『カラー・パープル』の著者アリス・ウォーカーが、1973年に、ゾラが世間から顧みられることなく人目につかない墓に埋葬されているのを発見し、彼女のために墓標を立てようと決心したという。(訳者あとがきより)

アリス・ウォーカーが「ゾラを探して」というエッセイを発表したことをきっかけに、ゾラ再評価が始まったらしい。

それ以降は、本作は文学リストに載るぐらいの作品へとその評価が変わったし、いまでは本作が絶版になるということもなさそうである。

しかし、それはアメリカでの話。

日本では、彼女も本作も、いやなかなか知られていないと思う。

アリス・ウォーカーは『カラー・パープル』で有名だし、ピューリッツァー賞も受賞している。

日本でもよく知られていると思うが、ハーストンは違う。

本作はとても良いものだったから、日本でももっといろんな人に知ってほしいし、手にとってほしいと切に願う。

 

肝心の感想は、普通に面白かった。

 

アフリカ系アメリカ人の文学や、彼らを題材にした文学ってのは、ここ最近読む機会が増えてきたように思う。

しかし、正直あまり好きなジャンルではない。

やはり、人種差別の描写が多く、読んでいてとにかく精神的に負担を感じることが多いからだ。

気が重くなる、読んだ後絶望する、希望が見出せない。

そんな感じだから。

 

それでも、文学的に価値のあるものは辛い思いをしてでも読みたい!って思うから、今回も警戒しながら読んでいた。

しかし!私の心配は杞憂に終わった。

そのタイトルからして重々しい感じもするのに、全然そんなことない。

むしろ、軽快な楽しい作品と言ってもいいぐらいだ。

 

主人公のジェイニーが娘っ子だった時から3度の結婚を経て現在に至るまでの身の上話を、親友のフィービーに語って聞かせる、というのが物語の構成になっている。

ジェイニーは祖母に育てられた。

が、この祖母が保守的な考えの持ち主。

ジェイニーは結構、当時としては先進的で、自由!ってものにかなりこだわっているというか、そんな感じがする。

人種差別の描写は若干あるのだが、ほとんどないと言ってよく、本作のメインテーマは女性の権利とか女性の自由・尊厳ってものだと思う。

それも黒人社会の中での、男性と女性の立場ってものに重点をおいているのだ。

 

とにかく、若いうちに結婚しなさい、相手が金持ちでハンサムでなくてもさ。

ていうか、相手のことを愛してさえなくてもさ。

結婚さえすれば、いいんだって極端な考えを持っているのがジェイニーのおばあちゃん。

おばあちゃんも悪い人ではないんだけど。

でも、愛する人と楽しい結婚生活を!と憧れているジェイニーとしては、反発したい気も満々だった。

 

結婚したら、独身の時の、宇宙のような寂しさはなくなるの?

太陽が昇ると明るくなるように、結婚したら愛せずにはいられなくなるの?(33)

 

こんな疑問を抱きながらも、結婚すれば次第に相手のことを愛せるようになるのだ、と自分に言い聞かせてジェイニーは少し安心する。

結局、ジェイニーはローガンという男性と1回目の結婚をした。

ローガンは悪いやつではない。

しかし肝心の愛がそこにはない。

真面目で働くやつではある。

しかしとにかく愛がないのである。

ローガンはジェイニーを結構気に入っていたのだが、というのもジェイニーは可愛らしい容姿でこの時は年齢もだいぶ若いからね。

ローガンからすれば、こんな若くていい娘を嫁にもらえた!って感じでウハウハだったのかもしれない。

 

愛のない結婚、保守的なおばあちゃんならそれでも我慢できたのかもしれん。

しかし、現代的な考えを内に秘めたジェイニーは我慢できない。

結婚すれば愛は育まれていくもの、って考えが、まるで間違っていることに気づくのだ。

 

彼女は結婚によって愛が生まれるものではないことが今になってわかった。

ジェイニーの最初の夢は消え、そうして女になった。(38)

 

ここ読んだ時に、あ・・・って思ってしまった。

なぜなら、私はある時期、好きになって結婚!というより結婚で一緒にいるうちに愛は育まれていくもの、なのかもしれない?!と思ったことが、実際にあったからだ。

そう思ったのには理由が一つある。

しばらく誰も好きになれなかったからだ。

だから、もう誰も好きになれないかもしれない・・・となると、愛は育まれるものなら、最初から好き!って思ってなくてもいいのかな?という考えがちらっとよぎったのだ。

まあ、結局それは無理だということがわかり、その考えは捨ててしまったが、今になってその考えは間違っていたという裏付けみたいに、ジェイニーが否定してくれたことが嬉しい。

人それぞれの考え方はあるだろうけど、やっぱり結婚してから愛を育んでいけばいいんだから今は好きという気持ちがなくてもいい、とは思いたくない、否、思えない。

 

で、結局ジェイニーは愛のない結婚を続けられなくなる。

ジョー・スタークスという人物に出会い、彼と駆け落ち。

まあ、いわばローガンのことを捨ててしまう。

ローガンは哀れだけど・・・。

ジョーとは20年の結婚生活を共にする。

ローガンと違って、男らしさがあり、経済力や行動力のある男。

町長にまで登りつめるような男だ。

ジェイニーは町長夫人として、経済的に豊かで何不自由ない生活を手に入れたし、ジョーのことも、ローガンの時よりは愛していた。

しかし・・・。

ジョーは男性優位な考えの持ち主。

ジェイニーのことを大事に思っているのは分かるんだけど、所詮、女は女って考えが見え隠れする。

ジェイニーが公で発言するのを好まなかったり、他の男性の前で美しい髪を見せることを嫌がり、常に髪を結わえるように命令したり。

そして、自分が言うことは絶対に納得させようとするような人だった。

だから次第にジェイニーの心も冷めていった。

とはいえ、ジョーが病気で亡くなるまでは連れ添ったので、不幸な結婚とまでは言えなかったのだろうけど。

 

未亡人になったジェイニーの前に現れたのがティーケイクと言う愛称を持つ25、6歳の若い男性。

この時ジェイニーは40歳近いから、かなりの年下男性。

会ったその日から、ティーケイクはやたらとジェイニーに好意を持っているように接してくる。

ジェイニーは私はもうこんな歳だから、と相手にしないが、ティーケイクは何度あしらわれようと、諦めずに彼女の元へ訪ねてくる。

最初は、私も読みながら、このティーケイクってやつ、ジェイニーを騙そうとしてるな、騙されるなジェイニー!

このまま不幸な結末になってほしくない!

って不安でそわそわしていた。

だが、嬉しいことに、ティーケイクの想いは本気だった!

よかったー!!!

彼らは一緒に過ごすことになり、結婚までするのである。

このジェイニーとティーケイクのやりとりがね、本当になんか素敵なんだわー。

 

「みなさん、今晩は。今宵はちょっとした音楽が気に入ってもらえると思って、ギターを持ってきました」

「いいかげんにしてよ!」とジェイニーは、顔を輝かせながら言った。

彼は、それが彼女のほめ言葉であることに気づいて微笑み、箱に腰かけた。

「誰か一緒にコカコーラを飲んでくれないかなあ?」

「飲んだばかりよ」とジェイニーは調子を合わせて言った。

「もう一回飲まなくちゃいけないよ、奥さん」

「なぜなのよ?」

「だって、あの時はちゃんと飲まなかったんだからさ。ヘゼキヤが箱から取り出して二本持ってきてるよ」

「ところでティーケイク、あれからどうしてたの?」

「文句は言えないけど、ひどかったね。だけど今週は四日働いたんで、金はポケットにあるよ」

「じゃあ、今日は金持ちなんだ。今週、汽車を買うの、それとも軍艦?」

「どっちがいい?あんた次第だよ」

「そうね、買ってくれるんだったら、汽車がいいわ。汽車がダメだったら、やめとくわ」

「ほんとに欲しかったら、軍艦にしな。俺、それが今どこに停泊しているか知ってるよ。この前、キーウエスト近くで見たものよ」(135)

 

二人のやりとりの一部。

こんな感じ。

ローガンやジョーの時は、ジェイニーがこんなに生き生きと楽しく会話をしていることってなかったと思う。

相手の言うことと自分の言うことがこんな風にうまく噛み合って、二人とも楽しくて自然に笑ってしまうような関係。

いいね、こんな関係って。

ジェイニーって、可愛らしい魅力的な女性。

だからこんなにモテるんだろうな〜。

年下の男性にまでモテるほどの女性らしい若々しい魅力があったんだろうと思う。

ティーケイクは年下だけど、だからと言ってなんか初で頼りない男ってわけでもない。

賭博好きで経済的にはちょっと残念なんだけど、何より、一緒にいて心底楽しいって思えるような人なんだ。

だからジェイニーは今までにない感情を持つことができる。

初めて、男性と平等な関係を持てたというべきか。

 

それで、二人は楽しい結婚生活を過ごすのである。

途中、ターナー夫人という黒人でありながら黒人差別主義者が登場してくる。

彼女は、黒人の中でも白人に近いジェイニー(肌の色や生まれ育った環境が、白人に近い)には好意を持って笑顔を振りまくが、ティーケイクには軽蔑の目を向ける。

白人至上主義的な部分も垣間見える。

残念な人物だった。

そんな彼女は、自身の弟とジェイニーをくっつけようと躍起になるが、ジェイニーは次第に彼女と距離を置くようになる。

 

二人の幸せな結婚生活が最後まで続けばよかったが、そうは行かなかった。

ある日、二人の住む街が大嵐に襲われてしまう。

ジェイニーとティーケイクは二人で必死に大雨の中を隣町に向かって逃げる。

その際に、ティーケイクは狂犬に噛まれてしまうのである。

大嵐もおさまり、やっとまた前の生活に戻れるか、という時に狂犬病を発病してしまうのだ。

ジェイニーの看病も虚しく、彼の狂気が最終的にジェイニーに銃口を向けさせてしまった。

ジェイニーは、自己防衛のためにティーケイクを撃ってしまう。

彼女は裁判にかけられるが、正当防衛が認められ投獄は免れた。

 

ティーケイクは本当に本当にいい奴だったのに、こんな悲しい結末を迎えてしまったのである。

ジェイニーとティーケイクとの関係を読んでいる読者なら、二人が本当に愛し合った夫婦だったと確信を持てるだろう。

しかし、何も知らない陪審員たちがジェイニーをどう裁けるというのか。

判決を待つ間のジェイニーの心情に心が痛くなった。

 

陪審員たちは整然と一列に退席していった。

法廷がざわついて、立って動き回るものもいた。

ジェイニーはじっと坐って待った。

彼女は死ぬのが怖かったのではない。

誤解されるのが心配だった。

もし彼女が、ティーケイクを愛していなかったので、彼に死んでもらいたかったと思われたなら、それは、罪悪であり、恥辱であり、殺人よりもひどいものだった。

その時、陪審員たちが戻ってきた。

法廷の時計では、予定より五分過ぎていた。(249)

 

裁判の描写は多くないけど、陪審員制度というこの中で、真実にたどり着くことなんておよそ不可能なんじゃないかな。

この小説の中では、ジェイニーの思いは認められた、通じた、理解された。

でも、現実ではそうはいかないこともいくらでもあるんだと思うけど。

だから、今回の小説の中ではうまくいってよかった、って思えたけど、どこか不安な気持ちも残った。

というのも陪審員たちはジェイニーを無実と認めたけど、その周りにいた黒人たちは、日頃のジェイニーへの嫉妬や僻みからか?絶対的に彼女を有罪にしてやりたいという気持ちでいっぱいだったのだ。

そこには、真実を追求しようとか、そんな気持ちのカケラもない。

実際の陪審員制度にだって、人種差別や個人的な感情とかが絶対に入ってくると思う。

 

全体的には、こんな感じのお話だ。

ジェイニーはティーケイクを失って、況してや自分の手によって殺してしまうことになって、絶望的な運命をたどることになった。

それでも、彼女は気丈に振る舞い、身の上話をフィービーに語ってみせる。

心の中には、愛するティーケイクを大事に想いながら。

 

ティーケイクと最後まで幸せに一緒に過ごすという結末にしなかったのは、ハーストンが、女性として一人で強く生きていく、という結末にしたからだったからかな、と推測してしまう。

でなければ、せっかくあんなに幸せになれたのに、愛すべき人物のティーケイクを死なせてしまうなんてしないだろうから。

 

その点では、私にはちょっと悲しい、切ない結末になった。

女性の自立と幸せな結婚は、両立できないのかというと、そうではないと思う。

女性は自立もできるし、幸せな結婚もできる。

その両者は可能だ。

ましてや、ティーケイクのような男性相手だったら、絶対に可能だったに違いない。

もったいない結末ではあると思う。

 

彼らの目は神を見ていた (ハーストン作品集)

彼らの目は神を見ていた (ハーストン作品集)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたらしい名前 by NoViolet Bulawayo

ノヴァイオレット・ブラワヨ。

1981年、ジンバブエ生まれ。

アメリカへ移住後、コーネル大学で創作の修士号を取得。

現在はスタンフォード大学で創作を教えている、女流作家。

 

本作は彼女の長編デビュー作で、2013年に出版された。

ブッカー賞の最終候補にも選出されたそうです。

 

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まず、この本を読んでみようと思ったのは、なんと言ってもその印象的なカバーデザインでしたね。

一際目を惹くような明るい色彩と可愛い絵。

こういうのを見ると、内容は置いといて読んでみたくなってしまう。

しかも、ジンバブエ出身の作家の小説なんて今まで読んだことがないし。

興味を持ちました。

 

肝心の感想です。

悪くはなかったけど、大好き!素晴らしい!とまでは思えなかったかな。

こればっかりは、好みの問題になってしまうけれども。

 

あらすじ

ジンバブエからアメリカへ ー 。

グァバを盗んだり、ごっこ遊びをしたり、天真爛漫に遊ぶジンバブエでの日々を経て、少女ダーリンはアメリカに移り住む。

しかし豊かで物があふれる国での暮らしは、予想外に戸惑うものだった。

 

こんな感じの内容です。

作者自身が、ジンバブエからアメリカへ移住していることなどから、自伝的要素も強いのかもしれません。

ジンバブエでの生活が前半に描かれ、アメリカに移住後の生活が後半に描かれる構成になっています。

ジンバブエでの生活というのは、貧しくて大変なこともあるけど、仲間たちとわいわい楽しく過ごす姿が印象的で、あまり暗い印象はなかったですね。

グァバを盗むとか、ちょっと危険なこともしつつ、若い少年少女たちにありがちな、どこの世界でも共通な感じで。

ただ、その一方で、ジンバブエが抱える闇というか問題も描くことを忘れていず。

 

ただそのジンバブエの闇というのは、この国の歴史を知らないとちょっと分からないので、読んでいるときは、なぜ?と思ってしまう描写もいくらかあった。

訳者あとがきで、ああ、なるほど・・・とやっと分かったぐらいで。

そこは、私の歴史に対する無知を反省するしかないですが。

 

ムガベ大統領の独裁政治とそれがもたらしたインフレ。

国がうまくいかないのは、大統領のせいではなく、一部の少数の白人が土地を独占していることだ!と白人所有者らに怒りの矛先が向いてしまい、白人所有の農地を強制的に接収し、元ゲリラの黒人に分配。

しかし彼らは農業を知らないので、土地を放置。

生産は激減し、インフレが引き起こされた。

その後選挙で、最大野党のモーガン・ツァンギライが多数の票を獲得し、変化が起きるはずだった。

しかし過半数ではなかったとの理由から決選投票が行われることになったが、それまでの期間に野党支持者への脅しや暴行が行われた。

このような政治的背景が本作品にはあるので、それを知らずに読んでいると、なぜこうなった?という疑問が付いて回って、内容の理解にちょいと苦労してしまった。

 

現代作家らしい言葉感覚というか文章感覚。

出てくる表現、コト、物なんかはどれもこれも現代的でライトな印象もあった。

それが悪いってことはもちろんない。

現代作家なんだから当たり前だ。

なんだけども、ちょっと文学的にはどうかな、と思う表現が気になってしまった。

安っぽいとまでは言わないが、どちらかというと、そっちに行きかねない感じがあって。

説明が難しいけど、これは実際に読んでもらって個々の感想にゆだねられるのだろう。

若者言葉とか現代的な感覚といえば、

riza.hatenablog.com

なんかもかなりその類に入るのだけど、あの作品はやっぱり、人間ってものに重点が置かれているから安っぽさがない。

もっと、少女ダーリンの成長とか人間への描写が欲しかったような気がする。

 

アメリカに移住してから一気に、物語の深みが薄れていったようにも思う。

ジンバブエでの生活、楽しいことも悲惨なことも含めて、読み応えもあり、これからアメリカへ渡ることでどんな生活が待っているのか?

ダーリンはどうなっていくのか?って期待があったけど、なんだか、ね・・・。

後半の章、「いかに彼らは暮らしたか」の部分は非常に良かったのだけど。

 

アメリカであたしたちは、生まれてこのかた見たぜんぶをあわせたよりたくさんの食べものを見た。

あたしたちはあまりに嬉しくて、自分たちの魂をゴミ捨て場を引っ掻きまわし、染みだらけのこなごなになった神を拾いあげた。

ずっと以前、故郷にいたころ神をそこへ捨ててしまったのだ。

絶望したときに捨ててしまった。

空腹のあまり目眩がしたとき神を捨ててしまった。

神はなぜ我々に情けをかけてくださらないのか?なぜ?と考えた。

なぜ我々を聞き入れてくださらないのか?と考えた。

こんなに懇願して懇願して懇願したというのに、たったひとくちぶんの食糧さえ恵まれないのはどういうことか?と考えた。

そして怒りのあまり盲目になって神を投げ捨て、言った。

神なんか要らない。

こんな暮らしをしてるなら神なんか要らない。

けっして与えられないもののために祈るくらいなら神なんていないほうがマシだ。(254)

 

 ここの表現なんかはすごく良かったです。

貧しさゆえの苦しみを味わったジンバブエの少女が、アメリカに来て驚いたのはなんと言ってもその物質の豊かさ。

食べきれないほどの食料を目の前に、それでも今までの貧困の分、家族や友人など祖国で飢えている仲間たちの分までも食べてしまおうと、お腹いっぱいになるまで食べ続けるダーリンの姿も描かれます。

ただ、アメリカにはアメリカで別の問題がある。

貧困だってアメリカにはあるし、貧富の差は世界的にも非常に大きいでしょう。

モラルの低下とか家族や人間同士のコミュニケーションの希薄さとか、先進国ならではの、物質が溢れている国ならではの闇、精神的な貧困ってのが、あると思います。

でも、そこへの描写がイマイチ中途半端だった気がします。

アメリカの闇を描きたいのか、希望を描きたいのか、作者の立場が曖昧に感じられてしまったのです。

ただ、これは私の読み解き方が悪かったのかもしれない。

うーん、難しいところだ。

 

拒食症あるいは過食症の人に対する作者の考え方は、貧困を経験したからこそのものだと思われるものでした。

 

だってさあ、セクシーになりたいそこのあなた、つまりこういうことだよ。

あなたは食べものでいっぱいの冷蔵庫を持ってて、だからどんなにお腹がすいたとしても、ホンモノの、真の飢餓はわからない。

まわりを見れば富があふれていて、そしてあなたはそれを必要とすらしない。

二階には王さまだって眠れるベッドが用意されている。

コーネル大学に通ってて、つまり何でもなりたいものになれる。

自分が使ったあとを掃除する必要すらない。

なぜならあたしがしてるから。

あなたは犬を飼ってて、そのワードローブすらあたしには買えやしない。

そして何より、あなたはここに、自分の生まれた国に生きてる。

あなたの抱えてる問題、それっていったい何なのかな?(286)

 

ダーリンは、アメリカでエリオットという男性の家の掃除をするというアルバイトをしていた。

エリオットにはケイトという娘がいる。

彼女はボーイフレンドにセクシーじゃないっていう理由で振られた過去があり、そのショックから自殺未遂をしていた。

それ以降は拒食症になってしまっている。

そんな彼女が朝食として、干しブドウ五粒、まるいちいさな何か、そしてコップ一杯の水を並べた時に、ダーリンは思わず吹き出してしまったのだ。

 

これは、非常にデリケートな問題だからあまり触れないようにしよう。

ただ、貧困を、本当の意味での飢餓を経験していない、というのは事実である。

もしケイトが、本当の飢餓を経験していたとしたら、こうなっていたか?

食べものがあるという有り難さを目の前にしながら、それでも食べたものを吐くことが出来るのか?

これは自殺問題にも似通っているかもしれない。

物質的に豊かな社会で自殺が多いのは何故なのか。

人間は、物質的に満たされた時、もはや物質の豊かさを死に物狂いで求めなくてもよくなった時、初めて心の貧困に気づくものなのかもしれない。

それまでは、物質的に貧しかった頃には、生きて行くために必死で気づかなった心の貧しさに。

そう考えると、果たしてどっちが幸福なのか分からなくなってくる。

 

最後に心に残ったのはこちらのセリフ。

 

ひとつだけ教えてちょうだい。

自分の国でもない場所で、あなたいったい何をしてるの?

どうしてアメリカなんかに逃げたの?

ダーリン、ノンクルレコ・ンカラ、ねえ?

どうして行っちゃったのよ?

ここがあなたの国なんなら、この国を愛してここに住まなきゃいけない、出ていったりするべきじゃない。

何があろうと、この国のために闘わなきゃいけない、そして正しい国にしなければ。

言ってちょうだい、あなたは家が燃えていたら見捨てるの?

それとも消火のために水を探しに行く?

燃える家を放っておくとしたら、炎がいつか水になって自然に消えてくれると思うわけ?

あなたは見捨てた、ダーリン、マイ・ディア。

あなたは燃える家を放っておいて、それで図々しくもわたしに言うのね。

生まれ育った言葉じゃないアクセントで。

少しも似合わない言葉遣いで。

ここが、あなたの国だって。(305ー306)

 

ダーリンが、かつてジンバブエで一緒に遊んだ仲間の一人、チポと久しぶりに電話で話すシーンから。

ダーリンの、「あなたが気の毒だわ」、と言う他人事のような上から目線の憐れみに、チポはカッとなったのに違いない。

祖国を捨てておいて、祖国を思っているようなフリをするダーリンの偽善的な一面をこれでもかと言うぐらいに責立てる。

この後、ここまで言い切られてしまったダーリンは思わずパソコンを投げつけてしまって会話は終了。

 

ダーリンだって、本当のところは祖国で幸せになりたかった。

アメリカでは、言葉も通じず差別を受けることだってあった。

大変な苦労もあった。

それでも、ジンバブエでの貧しい暮らしよりはマシだった。

帰りたい、帰りたいけど帰れないのも現実。

そんなジレンマに苦しんできたダーリンの思いを、祖国でずっと苦しんできたチポには分からないだろうし、豊かな国で暮らすダーリンから、いくらジンバブエでの現状を心配するような言葉を掛けられたって、他人事にしか聞こえない。

かつては一緒に遊んだ仲間だからこそ、本音でいえば、チポはさみしかった。

悔しかった、羨ましかった?

いずれにせよ、現状をテレビなどのメディアでしか知り得ないもはや異国の人間になってしまったダーリンに、気の毒がられるなんてプライドも許さない。

チポの言い分は非常に正しいと思ってしまった。

 

全体的には、良い作品だったと思う。

が、やはり最初に書いたように、物足りない部分も多かったかな。

テーマが混在していて、アメリカでの場面は雑多な描写も多く、読むのが少し長ったらしく感じることもあった。

とはいえ、世界的な評価は得ている作品だから、日本人の読者にもたくさん読んでいってほしいとも思う。

少なくとも、ジンバブエについて学ぶ大きなきっかけにはなる。

 

あたらしい名前

あたらしい名前

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カンディード by Voltaire

ヴォルテールって初めて読みました。

彼の写真というか肖像画を見てみると、予想していた顔と全然違ってたからびっくりしてしまった。

勝手にボードレールみたいな顔をイメージしてしまってた。

 

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カンディード」自体、全然知らなかったのですが、海外ではよく知られているのかな。

私が無知なだけかしら。

そこまで、期待してなかったんだけど、結構面白かったです!

冒険モノですけど。

普通の冒険モノではないです。

かなり、ぶっ飛んでます。

お下品な描写も多々あります・・・。

でも下品さは気になりません。

吹いてしまう程度です。

 

それより、カンディードが味わう様々な苦難が、コメディとしか思えないレベルです・・・。

でも、実際世の中、虐げられている人々もいますから、必ずしもコメディとは言い切れないかもしれないな。

 

あらすじ

楽園のような故郷を追放されたカンディード

恩師パングロスの「すべては最善である」の教えを胸に、リスボンの大地震、戦乱、盗賊や海賊の襲撃など、度重なる災難に立ち向かうのだが・・・・・・。

18世紀啓蒙思想ヴォルテールの代表作。

 

 カンディードという人物描写がどうの、という作品ではないと思います。

それより、彼や彼の周りの人々が受ける迫害とか仕打ちがひどすぎて。

世界はこんな酷いもんだぞ!

なのに、神が創ったこの世界は最善なのか?!

っていう✴︎最善説への異論の立場をヴォルテールは取っているのではないかと思います。

というのが一般的な本書への解釈だそうですし。

 

カンディードは若い青年でしたが、クネゴンデという美女のお姫様と恋仲になったことをきっかけに波乱万丈の人生を生きることになってしまいます。

二人の関係を知ったクネゴンデの兄である、ツンダー・テン・トロンク男爵に見つかり、城から追い出されてしまうのです。

それだけでもまず、悲惨ですが、その後理不尽な理由で逮捕され、拷問を受ける。

哲人パングロスさんの「最善説」を胸に刻みながらも、訪れるのは悲惨の連続。

 

リスボン地震(実際に起こったもの)の言及もあります。

この地震は人間の愚かさを神が罰している、という解釈が当時なされたそうで。

数人がその罪を償うための犠牲となって、火あぶりの刑にあいます。

この火あぶりの刑が実際に行われたかは不明ですが、火あぶり自体は実際にされていたことなので、本当にゾッとします。

その火あぶりの刑の時、哲人パングロスさんは絞首刑にされてしまう。

なんとか生きながらえたカンディードでしたが、善人であるはずのパングロスが理不尽にも殺されてしまうのを見て、最善説への疑いを深めていくのです。

 

そしてある時、クネゴンデが凌辱されて亡くなった、彼女の家族も亡くなったという知らせを受けて、彼の絶望は最高潮に達します。

どんなに苦しいことがあっても、いつかまたクネゴンデに会える、その希望だけを頼りに生きてきた彼のことです。

その愛が亡くなった、しかもそんな苦しみを受けて亡くなったということを知って彼はもう絶望も絶望に陥ります。

 

しかし、パングロスさんが絞首刑になった後、彼は奇跡的にもクネゴンデと再会。

なんと彼女は生きていたのです。

 

とまあ、この冒険の顛末を一から百まで書いていたらキリがないのでこの辺にしておきます。

 

この後も、かなりの波乱万丈人生をカンディードは生きていきます。

なかなか、現実でこんな人生はないだろう、って思ってしまうほどの驚きと事件の連続ですが。

 

ある場面で、カンディードは地べたに横たわっている黒人青年を見かけます。

その青年は左足と右手がありませんでした。

カンディードはこの青年に話しかけます。

青年は身の上を答えてくれました。

 

「年に二回、こういう半ズボンが一着支給されますが、私たちが着るものはこれだけ。

砂糖をつくる工場で働いていて、機械に指がはさまれると、壊疽(えそ)にかかって手が切り落とされます。

逃げようとすると、罰として足が切り落とされます。

私はその両方をやられました。

ヨーロッパのかたがたは、私たちがこういう目にあうおかげで砂糖が食べられるわけです。

しかし、私の母がアフリカのギニアの海岸で、私をパタゴン銀貨十枚で売ったとき、こう言いました。

息子よ、私たちの神様に感謝し、いつも拝みさない。

そうすれば、幸せにしてくださる。

おまえは光栄なことに、私たちのご主人様である白人の奴隷になった。

おまえのおかげで父と母は金持ちになれるよ。

ああ、これが母のことばでした。

私のおかげで親が金持ちになれたかどうか、それはわからないけど、親のおかげで私が金持ちになれなかったことだけは確かです。

私たち奴隷に比べれば、犬や猿やオウムのほうがはるかに幸せだ。

私を改宗させたオランダの牧師は、日曜日ごとに、私たちは白人も黒人もみんなアダムの子だと言う。

私は自分の血筋など、さっぱりわからないが、もしあの説教師の言うことがほんとうなら、私たちはみんな兄弟ということになります。

では、どうして、兄弟なのに相手をこんなひどい目にあわせたりできるのでしょう。

旦那、どう思います。

こういうことがあってもいいものでしょうか」(122ー123)

 

 長い引用ですが、私が本作で一番印象的だったのが、この黒人奴隷の言葉ですね。

この言葉を聞いた時、カンディードはとうとう、最善説を捨てざるをえない、と宣言したのですから。

これまで自分の身やクネゴンデの身に起きてきた様々な災難、その度に、最善説を疑う気持ちを強めていっていたカンディード

それでも、尊敬する師匠パングロスは正しいのだと、なんとか自分にいい聞かせてきたけれど。

ここにきて、彼はやっとその考えは、間違っているのだと確信するのです。

神が創る世界は全て正しい、善いものであるならば、この奴隷が味わっている責め苦、この苦しみも正しいのか?善いものなのか?

それを認めることになりますから。

 

また別の印象的な場面では、カンディードがマルチンという老学者と出会うところです。

マルチンの言葉が心に残りました。

彼はマニ教徒だそうです。

マニ教に詳しくないのであまり分かりませんが。 

 

「・・・私がいままで見てきたところでは、隣の町が落ちぶれるのを願わない町や、隣の家が破滅するのを願わない家など、ほとんどありません。

どこにおいても、弱者は強い人間を憎悪しながら、強い人間のまえでは這いつくばり、そして、強い人間はそういう弱者を羊の群れのようにあつかい、その毛や肉を売る。

また、百万人の人殺したちが、軍隊として編成され、ヨーロッパの端から端まで駆けまわり、よく訓練された手口で殺人と略奪を実行している。

それは自分のパンをかせぐためなのです。

なぜなら、人殺しの連中には軍隊以外にまっとうな職業がないからです。

また、軍隊に包囲されて戦争の災害にあっている町よりも、まったく平和で芸術が栄えているように見える町のほうが、ひとびとは妬みや心配や不安にさいなまれ、よほど苦しんでいる。

目に見えない悲しみのほうが、目に見える困窮よりもはるかに残酷なのです。

要するに、私はたくさんのことを見、たくさんのことを経験したからこそ、マニ教徒になったのです」(133ー134)

 

ますますマニ教がどんなものなのかが気になってきました。

マルチンの考え方は、ちょっと極端かもしれません。

あまりにも悲観主義といえば悲観主義

ただ、彼の見てきた世界が本当に黒々としたものだけだったのだとしたら、善というものを信じられなくるのも無理はないでしょう。

 

この後も、カンディードの冒険は続きます。

最終的に彼が辿り着く境地はどんなものなのか。

ぜひ読んでいただきたいと思います。

 

本書では、解説が非常に詳細にわたっていたので、作品の背景にある思想とか当時のフランスおよびヨーロッパの流行とかを知ることができて、より作品への理解を深められると思います。

リスボンでの地震が起こった際に書かれたという詩、「リスボン大震災に寄せる詩」も収録されいます。

こちらの詩も、最善説を覆すようなヴォルテールの意思が強く感じられるものになっています。

 

ヴォルテール、初めて読みましたが、なかなか面白かったですね。

1759年に著された「カンディード」。

259年前の作品だけど、いまでも色あせないテーマだと思います。

 

✴︎最善説とは

ライプニッツの考え方をさす。

言語はオプティミズムだが、「楽天主義」の意ではない。

世界は善なる神が創造したものゆえ最善のものであるとする考え方。

 

 

 

夜の語り部 by Rafik Schami

ラフィク・シャミはシリア、ダマスカス出身の作家です。

1971年に当時の西ドイツに移住し、その後作家活動に専念したそう。

なので彼はドイツ作家ということになるようです。

 

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がしかし、今回読んだこちらの本は、やはりシリア出身の作家なんだな〜というのを思わずにはいられない、中東の幻想的な世界をとくと味わえる物語になっておりました。

ラフィク・シャミのことは全然知らなかったんですが、この本の表紙のデザインが素敵すぎて思わず手にとってしまった。

西村書店から出ているのだが、同作家の別の2作品もまた、素敵なデザインだった。

やはり、本は、特に小説や文学などは、カバーデザインが素敵であるに尽きる!

 

外国でも、こちらのカバーデザインのものがあるようだから、外国のものをそのまま持ってきたのかな?

ドロテーア・ゲーベル、という方のデザインらしいです。

 

ラフィク・シャミが絶妙な語り口でつづる、ダマスカスの物語第2弾。

ある日突然口がきけなくなってしまったサリムを救うことのできる「7つの特別な贈り物」とは?

 (Amazonより)

 

これ第2弾なのか?

じゃあ第1弾は何?

 

それはひとまず置いといて、サリムっていう御者のおじさんがいたんですが、彼が饒舌なことで有名で。

お客さんを乗せた車を走らせる間、彼はお客さんを飽きさせないために常に色々なお話をして聞かせてくれる。

そのお話がすごく面白くて旅もあっという間に感じられてしまう。

お話の上手さで、それはそれは有名だったのがこのサリムじいさん。

 

しかし!そんなサリムじいさんが、突然話せなくなってしまうのです。

一体またなぜ?

 

そんなサリムじいさんを助けなければ!と立ち上がったのが、癖の強い7人の仲間たち。

彼らが、夜毎にサリムじいさんにお話をして聞かせることによって、サリムじいさんの言葉を取り戻そうじゃないか!という、あらすじです。

 

シリアという中東の舞台、夜毎に人々がお話をして聞かせる、という設定。

ラフィク・シャミは「千夜一夜物語」の系譜を受け継いでいると、よく言われているそうですが、本作はまさにそれですね。

と言っても「千夜一夜物語」を読んだことないんだけど・・・。

 

童話のような雰囲気です。

だから、子供が読んでも理解できるし面白いって思うんだろうなってそんな感じのお話。

内容だけ見れば難しくないし、むしろ易しいぐらいですね。

 

でも、なんだろうな、中東の作家の作品ってあまり今まで読めていなくてね。

こういう世界が広がっているんだな〜っていうのを知ることができるという点では、大人にもどんどん読んで欲しいような、そんな作品でした。

 

あるときぼくが、どうしておじいさんは言葉の力でみんなをうっとりさせることができるの、とたずねると、サリムじいさんは答えた。

「砂漠の贈り物なんだよ」そして、ぼくがよくわからないでいるのを見ると、こう説明してくれた。

「砂漠はわしの友だちじゃ。

砂漠というのは、よそからくる人にとってはすてきな場所かもしれん。

何日間、何週間、何か月間か砂漠に住んだだけの人は、すばらしいところだと考える。

だが、長い間砂漠で暮らすのはたいへんなことだよ。

日中の焦げるような暑さや、夜の刺すような寒さのなかで、なにかいいものを手に入れようったってそうはいかない。

砂漠でずっと暮らそうと思う人なんていない。

それで、砂漠はとてもさびしがっとるんだ。

(中略)

ひいひいひいじいさんは砂漠の叫び声を聞いて、砂漠が一人ぼっちでなくなるように、そこにとどまる決心をしたわけだ。

砂に埋もれて暮らすために、町中の緑の庭を捨ててしまったというんで、大勢の人がひいひいひいじいさんを笑いものにしたさ。

(中略)

砂漠は感謝の気持ちから、ひいひいひいじいさんとその子供と子供の子供たちに、あらゆるもののなかでもいちばんすてきなものをプレゼントした。

それは、言葉というもので、彼らはその言葉のおかげで、野宿するときのたき火のそばや、長い旅の途中でも、いろいろと話をすることができたんだよ。

(中略)

人をうっとりさせてくれる言葉のおかげで、どんな山も谷も、星も世界も、一枚の羽より軽くなったのさ」(17-18) 

 

物語は、サリムじいさんの小さいな友だちである、ある男の子の口から語られている。

この子が、サリムじいさんに話を聞いたときのエピソードが上記のもの。

砂漠は、観光客にとってはすてきな場所だけど、それは限られた時間しか滞在しないから。

ずっと暮らすには、あまりにも過酷な環境。

だから、誰も砂漠で生きていこうとは思わないもの。

砂漠は孤独で寂しくてたまらない。

そんな砂漠の叫びを聞いて、サリムのひいひいひいじいさんは、砂漠で暮らすことにしたという。

そのお礼に、砂漠は言葉をプレゼントしてくれた。

なんだかこの話だけでも素敵な感じ。

アラジンとかを彷彿とさせる雰囲気を感じられる場面でした、砂漠とかが出てきたからかもしれないけど。

 

7人の個性的な人物たちのそれぞれのお話、物語はどれも印象的だったけど、そのうちの2つを少しここに書いておきたいと思います。

まず1つ目が、マクハの主人、ユニスの話。

マクハとは、

コーヒーを飲んだり、水たばこを吸ったりできる店のことで、夜にはハカワチと呼ばれる語り部がお客に話を聞かせたりする、

のだそうだ。

 

そんなユニスは自分の身の上話を話して聞かせる。

幼くして母親を失い、兄弟たちと子供ながらに働いた日々。

ある日、悪気はなく仕事を放り出し、大切な小麦を失ってしまったこと。

父親に会わせる顔がなく、そのまま家出してしまった話。

そんなある日、オマールという人物に出会った。

紳士であるオマールに、ボロボロだったユニスは助けられ、オマールは彼にとっての恩人となる。

オマールは素晴らしい人物ではあったが、それと同時にニセ金で生計を立てているという裏の顔もあった。

ユニスはあるとき、この秘密を同級生に打ち明けてしまう。

その同級生に誘惑され、一緒にニセ金を作ってみることにしたユニス。

これで、オマールの所業がバレ、彼は逮捕されてしまう。

恩人を裏切ってしまったのである。

ユニスは刑務所でオマールに会ったときただひたすら謝ることしかできなかった。

 

わしは彼にいった、ダマスカスでわしに愛を与えてくれた唯一の人を裏切ってしまって、死ぬほど恥じている、と。

彼が刑務所でくたばってしまうのを見るくらいなら、死んでしまいたい、と。

彼は笑った。

『死んだり、ずっと恥ずかしく思っていたりするよりも』と、彼は答えた。

『頭を使って悟りを開けよ。〈汝が知っていることを決してすべて人に話すなかれ〉とね』(157)

 

オマールのこの台詞がいい!

そしてなんて寛大な人物であろうか・・・。

ユニスの話には続きがあって、最後がなかなか粋で素晴らしいです。

ぜひ読んでいただきたい!

 

次は、移民のトゥーマの話。

アメリカに移住していた彼は今では75歳。

そんな彼のアメリカでの生活のエピソードが面白くて笑えるのです。

 

例えば、彼はキリスト教徒なのですがアメリカ人とのこんなやりとりがあったと言います。

 

『あんたトルコ人かい?』と、彼がたずねた。

『いや、アラブ人だ』とわたしは答えた。

『なに、かまわんさ。イスラム教徒は好きなんだ。ぼくはイスラム教に改宗したのさ。

✳︎アシュハドゥ・アナ・ラ・イラハ・イラ・アラー・ワ・アナ・ムハマダン・ラスル・アラー』

アメリカ人はイスラム信仰告白を唱えたが、それ以上アラビア語を話すことはできなかった。

『オーケー、よかったね、でもわたしはイスラム教徒じゃないんだ。キリスト教徒なんだ、おわかりかな?』

(中略)

『それならアラブ人じゃない。メキシコ人だろう!』

『違う違う。正真正銘のアラブ人だよ。わたしの一族には、どの世代にも作家がいたんだ』

『ふうむ』彼はまたため息をついて、長いこと考えた。

『ほんとにアラブ人なら、イスラム教徒なんだろう!』

『違うんだ、なにもわかっちゃいないな。アラブにはユダヤ教徒もいれば、クリスチャンも、イスラム教徒も、ドルーズ派も、バハイ教徒も、イェシェド教徒もいて、ほかにもまだいろいろな宗派があるんだよ』

『ふうむ』と彼はうなると、気が抜けたようにわたしを眺めた。

『いや、アラブ人はみんなイスラム教徒でなくちゃ。イスラムを発明したのは彼らなんだろう!』

彼は、まるでアラブ人が彼とイスラム教を見捨てたとでもいいたげに、がっかりしていた」(176-177)

✳︎「この世にアラー以外の神は認めない。ムハンマドはアラーの使徒なり」の意

 

これぞまさにステレオタイプ

トゥーマからすれば、こんな言い方されて迷惑だったかもしれない。

けれども、ここでは面白おかしく話しているから、まあ許してくれているのかも。

日本人だからって、こうするのが当たり前!こうであるのが当たり前!

なんて外国の人から思われても、困ってしまうことがある。

どんな国に行っても、その国の人はこうであってほしい、という願いは誰しも持っているものかもしれないけど。

異文化交流がここまで広がっている現代であれば、ますますそう言った、この国の人にはこうであってほしい、という願いは叶わなくなって行くだろう。

それは、ちょっとさみしい部分もあるかもしれないけど、実際は素晴らしいことなのだ。

 

この他にも、全員で7人の仲間たちのお話と、サリムじいさんのその後が描かれます。

サリムじいさんは、果たして最終的にどうなるのか。

また話せるようになるんでしょうか?

 

日本において、シリアという国は、日頃そんなに親しみを感じる国ではないと思います。

シリア人を周りであまり見かけないし、シリアの文化とかってあんまり知らない。

でも、この本を読めば、すごく面白くて魅力的な国・人柄なんだってことが分かるはずです。

 

本作品は、1989年に出版されたもの。

ラフィクさんが、シリアに住んでいたときと、今のシリアは全然違うかもしれない。

それでも、人間の本質とかってのはそんな数十年でいきなり変わるものではないんじゃないか、とも思っている。

そう考えれば、きっと今のシリアにも、サリムじいさんとその仲間たちのような素敵な人たちがいるんじゃないかな。

 

中東はやっぱり素敵ですね〜。

神秘的で幻想的で・・・。

早いこと、「千夜一夜物語」を読んでしまいたいと思います。

 

夜の語り部

夜の語り部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

マイ・アントニーア by Willa Cather

あらすじ

舞台は19世紀後半のアメリカ中西部。

ネブラスカの大平原でともに子供時代を過ごしたこの物語の語り手「ぼく」と、ボヘミアから移住してきた少女アントニーア。

「ぼく」はやがて大学へ進学し、アントニーアは女ひとり、娘を育てながら農夫として大地に根差した生き方を選ぶ。

開拓時代の暮しや西部の壮大な自然をいきいきと描きながら、「女らしさ」の枠組みを超えて自立した生き方を見出していくアントニーアの姿を活写し、今なお読む者に強い印象を残す。

 

 

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ウィラ・キャザーの存在もこの作品も全然知らなかったけど、なんかそのタイトルに惹かれて読んでみました。

勝手に、近代の作品なのかな、と思ってたんだけど1918年出版なので大分古いですね。

フィッツジェラルドヘミングウェイよりも先の時代のアメリカ女流作家です。

 

内容はあらすじの通りです。

ボヘミアっていうのが、なんだか異国情緒溢れる感じでいいな、と。

でも舞台はアメリカなので、別に内容は異国情緒溢れる感じではなかったですが。

 

一言で感想を言うと、うーん・・・って感じでした。

面白くないわけではないのだが・・・。

退屈する場面が多かったように思う。

 

何だろうかな。

 

タイトルのアントニーアってのがボヘミアから移住してきた少女で、語り手のジム・バーデンと友情を育みながら、アメリカでの移民生活をたくましく生きていくのですよね。

このアントニーアの人生がなかなか波乱万丈で、父親の自殺があったり、経済的にも苦しかったり、恋人との間に子供をもうけるも、結婚できなかったり・・・と不幸続きです。

それでも、全然悲愴になることなく、強くたくましく生きていく姿が描かれています。

 

ただ、彼女のキャラクターや描写、彼女の人生で起こる出来事などがいまいちドラマ性に欠けていたと思います。

わざわざ小説にするほどの人物像でもなければ、人生でもないような・・・。

 

だからそこまでの長編ではないのに、すっごく読むのに時間がかかってしまったんですね。

要は、退屈なんですね・・・。

 

ジム・バーデンっていう少年も、何だかイマイチで。

アントニーアやその一家は移民なので、考え方や生き方がアメリカ人のそれとは違います。

ゆえに異文化交流の摩擦ってのが起こるのですが、アントニーアのことをすぐ嫌いになったり、彼女の母親や家族のことも結構すぐに嫌になるんですよ、このジムってのが。

まあ、少年という設定なので仕方ないんですけども。

それに最終的にはアントニーアのことも、すごく好きになりますし、子供ゆえの気まぐれだったり忍耐強さの欠如だったりが原因であるのは重々わかっています。

それでもやっぱり、ジムの語り、これいる?っていう発言なんかが多かったかも。

ジムの人物像ってのがまた弱い気がして。

 

どうでもいいんです・・・ジムやアントニーアのことが。

読んでいる間中、本当に登場人物たちに興味が持てなかったw

 

こんな小説って逆に珍しいです。

というわけで、私には全然合わなかったのでしょう。

 

ボヘミアとか移民なんてインパクトのある題材がきているので、もっと深い内容を予期してました。

薄かったです・・・。

 

私の感想があまりにも乏しいので、今回は訳者解説からの文章を抜粋して終わりにします。

 

経済的な困難、厳しい冬に耐えられなかった父の自殺、恋人の不実と私生児の出産といった苦境を乗り越え、農夫として、また十一人の子どもの母親として満ち足りた人生を送るアントニーアの姿は感動的であり、都会に生きる人間には郷愁を誘うものでもある。(312)

 

さっき私が書いた文章はほぼこの文章から取っている・・・。

 

かといって、誰にもオススメしない!とまでは言わない。

でもどちらかというと、中学生ぐらいが読むものかな〜って感じでした。

大人が読むものとしては、色々と物足りないと感じる人が多いんじゃないかと思います。

 

移民とか異文化交流、女性の自立、自由な生き方をする女性、経済的問題、人種問題、などなど語られるテーマ自体は子供じみたものではないです。

それでも、その一つ一つの描写が甘いというか深みがない。

中学生ぐらいまでの子どもが読めば、面白い!って思えるかもしれないな〜。

 

本作で一番印象に残った場面ですが、ジムは一時期リーナ・リンガードという自由奔放な感じの女性とデートをしたりして過ごしていました。

 

そこで、オペラを見にいく場面があるんです。

ここで詳細に語られるのが「椿姫」なのです。

この作品ほど悲恋を美しく描いたものはないんじゃないかと思ってしまう。

高級娼婦のマルグリット・ゴーチエと彼女に恋をするウブな青年アルマン・デュバルです。

作品中の他作品の言及はよくある話ですが、実際に話の流れまでざっくりとではあれ説明されているのは珍しい気がする。

改めて、「椿姫」って最高に素晴らしい文学なんだなってことに気づけました。

マイ・アントニーアを読んだ人は、ぜひ「椿姫」もチェックして欲しいです。

 

riza.hatenablog.com

 

 

マイ・アントニーア (文学シリーズ lettres)

マイ・アントニーア (文学シリーズ lettres)

ボヴァリー夫人 by Gustave Flaubert

久しぶりにフランス文学を読みました。

不倫が題材の退廃的なイメージのある作品だったので、あまり読みたい度は高くなかったのですが、名作だということで。

フローベールの作品自体は初めてでした。

 

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なんか勝手なイメージで、ボヴァリー夫人は30代から40代ほどの結婚してから10年ぐらいは経っていて、子供もある程度大きくなっていて、、、とそんな女性かと思っていた。

でも実際はまだ若い設定だったし、娘も小さい。

 

不倫っていうのも、一人の相手にどっぷりハマるのかと思ってたけど、なんと2人の男と関係を持つのだ。

同時ではないけれども。

 

夫がいるけど、本気で愛する人を見つけてしまった・・・というよりかは、どっちかっていうと退屈で虚無感のある毎日に刺激を与えてくれる男性にふらっと行ってしまった・・・っていう感じの方が強かった。

だからこそ、あまり共感もできず感動もできず、ボヴァリー夫人、そりゃないぜ。となってしまったのかもしれない。

 

ただ、内容自体は面白かったので、エンマ・ボヴァリー、彼女の行動に共感はできないものの、作品は楽しく読めた。

文章が良かったのかな。

 

エンマが中心人物なので、彼女を中心に物語は進んでいくが、なんと言っても哀れなのは夫のシャルルだ。

最初こそエンマと結婚して幸せな家庭、結婚生活が始まると思ったのに、エンマは結婚早々、夫の平凡性とかに飽きてしまい全く幸福を感じられなくなってしまう。

シャルルってのが、悪い人間ではないけどどこかつまらない、退屈な男として描かれている。

田舎の医者で、名誉、地位、お金はあるんだけども・・・。

 

ただ、シャルルが結局最後まで不倫に気づかない、エンマの異変に気づかないのは、鈍感な男だな〜としか言いようがない。

エンマのことが大好きなはずなのだが、だったら普通気づくだろう!って思ってしまうが。

エンマは結構シャルルに冷淡なのだ。

敏感な男なら、不倫に気づくというより、妻からの愛情がないってことにまずは気づくのではないか?

その鈍感さもシャルルの欠点だったのかもな。

 

不倫相手というのが2人。

まずは、年下のレオン君。

書記らしい。

エンマと結構いい仲になるのだが、レオン君の押しが弱かったり、エンマも踏みとどまったりで、深い関係には至らずに終わる。

レオン君が遠くに去る事になったことで、会うこともなくなった。

 

その次に、ロドルフ・ブランジュ。

彼はレオン君とは全然違うタイプの男性。

レオン君は、年下男性らしくエンマを持ち上げるような、あなたはなんてお美しい方なんだ!みたいな態度でくるのだが、この男は違う。

もっと強引で男らしい。

だからエンマも踏みとどまることができず、その押しにいとも簡単にやられる。

男の方では、確かにエンマの美しさに心惹かれたのは事実なのだが、人妻だということもわかっているし、あくまでも不倫、遊びの範疇でしかない。

夫から奪ってやる!そこまでの思いは残念ながらない。

だからエンマの思いが大きくなればなるほど、逆に引いてしまう。

 

うまいところまで行って、とうとう駆け落ちするか!?というところまで行ったのだが、結局自身の名誉や今後の生活のことを考え、そこまでの犠牲を払う価値はないと判断し、エンマに別れの手紙を一方的に送り、逃げた。

 

傷心のエンマの前に再び現れたのがレオン君だった。

久しぶりに再会した2人、この時にはレオン君も前より積極的になっていて、恋の炎が燃え上がる!

この2人がどうなるのか、そしてボヴァリー夫人は最後どうなるのかは・・・ぜひ読んでみてください。

 

フランス文学は今まで何作か読んでいます。

もちろん作家によって作風なんかは全然違うんだけど、やっぱりその国柄というか雰囲気ってのはあると思います。

で、不倫とか退廃的で気だるい感じはフランス文学に多いな〜とよく感じています。

今作はその意味で、非常にフランス文学らしい作品だったな、と。

 

生き生きとした生命力に溢れる人間とか、希望とか、そういった要素皆無。笑

ただ、訳者あとがきに書かれていたのですが、このボヴァリー夫人の不倫の物語は、実話を題材にしているということ。

実際、ある人妻が不倫をして莫大な借金を残し・・・という事件がフランスで起こっていたのだそう。

題材としては非常に劇的なものなので、作家は作品に著したのですかね。

 

不倫にも色々あるんでしょうが、ほぼほぼ全ての不倫の末路は悲惨なものです。

ボヴァリー夫人を読めば、それが本当によく分かるでしょう。

彼女は、シャルルとの結婚に喜びを見出せず、現実逃避的な感じで不倫に走ったんです。

でも彼女には、育てるべき娘がいる。

その娘への無関心さには呆れてしまいました。

愛のない、あるいは愛の薄い結婚をしてしまったがために、その夫への尊敬も愛もない、それは起こり得ることだし、そうなってしまった場合は、相手を愛せない夫または妻はかわいそうだとは思う。

それでも、子供は違う。

子供が生まれた以上は、絶対にちゃんと育てなくてはいけないのに。

エンマは娘のことはそっちのけで、浪費して派手な生活、そして不倫。

 

彼女の生来持っている、そういった性質こそが、彼女を不幸に貶めた最大の原因なのです。

だから、彼女はシャルルと結婚してなくても、結局何処かでつまづいたのではないかと思う。

 

彼女の美しさに、夫シャルルを始め、レオン君やロドルフも惚れるのですが、本気で愛されたわけではない、これもまた悲劇。

シャルルは愛してくれたのだけど、エンマがその愛を否定しているので意味がない。

どこまでも救いのない物語でした・・・。

 

一箇所印象に残った場面より。

エンマがシャルルと舞台を観ている場面です。

 

どうして自分は、この舞台の女がしたようには、反抗し、懇願しなかったのか?

それどころか、奈落の底に身を投げようとしているとも知らずに、嬉々としていて・・・・・・ああ!初々しい美しさに包まれ、結婚生活による汚れも不倫の幻滅も知らないころに、この人生をだれか揺るぎない大きな心の持ち主に託せていたら、そのときには貞節も愛情も快楽も義務も一つになって、かくも高い幸福の頂から決して降りはしなかったのに。

しかしそのような幸福も、おそらく、いかなる欲望も叶わない絶望ゆえに考え出された嘘なのではないか。

いまの彼女は、芸術が誇張して表現する情熱の矮小さを分かっていた。(403)

 

 ロドルフから一方的に別れられ、心身ともに病んでしまったエンマが、療養中にシャルルと演劇を観に行った際に、彼女の心情がこのように語られれていました。

結婚する前は、シャルルのことを好きだと思ったし、幸せな結婚生活が目の前に広がっていると信じていた。

でも、結婚した途端に、その現実に幻滅。

自分の理想とした結婚生活はついに訪れなかった。

その絶望感がよくよく分かる描写です。

 

この部分を読むと、さすがにエンマに同情しました。

不倫は良くないことだし、エンマの放埓的な性格は決して好きになれるものではないですが・・・。

不幸な結婚をしてしまうと、その先には地獄が待っている。

シャルルは別に暴力的でも浮気性な男ってわけでもなく、ちゃんと仕事をしてエンマを大事にしている。

積極的な悪や不幸がこの結婚生活にあったのではない。

エンマが不幸に感じたこと、それは退屈とか虚無感とか平凡さとか、嫌なことがあるわけではないけど、良いことも何もない、というところからきていたものなのかもしれない。

 

それでも、やはり不幸なのは、その不幸な結婚生活を変えるすべを彼女が持たなかったことでしょう。

時代的に、離婚とかが倫理的に許されないものだったのか?

今の時代とは違うのはもちろんでしょう。

不倫以外に、何もなすすべがなかったのか?

その不倫でさえ、彼女を不幸から救うことはできなかった。

 

平凡な一夫人が破滅へと転落していくそのドラマに、結婚の儚さ、不倫の無意味さを思い知らされる作品でした。

 

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

ボヴァリー夫人 (新潮文庫)