No Man Is an Island Book Blog

世界文学を中心に読みあさっては感想を書き連ねています。素敵な本たちを中心に紹介していきます!

走れウサギ by John Updike

原題:Rabbit, Run

出版:1960年

 

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アメリカの作家ジョン・アップダイクの作品。

ラビットシリーズで、全4作品出ているらしいが、その1作目。

最初は、文字通り動物のウサギが出てくる動物小説かなと思っていたけど全然違ってた。

主人公の男性はハリー・アングストローム

26歳のアメリカ人。

結婚して2歳の息子もいる。

 

そんな彼の結婚生活への幻滅と現実逃避がメインテーマ。

 

感想をまず簡単に書くと、私には全然分からない内容だった。

これ、翻訳が非常に悪かったっていうのもあるんじゃないかなー。

翻訳自体古いっていうのもあるけど、古くても名訳であれば・・・ね。

古さが原因ではない。

とにかく、読みにくい。

日本語が不自然なところもあるし、プロの翻訳とは思えないなー。

この翻訳の悪さが作品にだいぶん影響してしまってると思うので勿体無い。

 

詳しくはこちらをご参照あれ。

走れウサギ - Wikipedia

 

ウィキペディアを読めば、話のあらすじは大体分かると思う。

正直、ここに載っている以上の内容が本作にあったかと言われると・・・。

上下巻とあり、決して短い作品ではなかった。

読むのが非常にかったるく、長く感じた・・・。

 

ハリーはウサギの愛称を持つ男。

高校ではバスケットボール選手として名を馳せた。

今では、ジャニスという若い女性と結婚。

ネルソンという2歳の息子もいるが、結婚は失敗そのもの。

そもそも結婚したくてした、というよりしちゃった感が強い。

ジャニスはあまり頭の良い女性、という印象はなく、どちらかというとその反対。

妊娠中で、イライラしているというのもあるかもしれないが、すぐに酒に頼る。

ジャニスとの結婚生活に喜びや意味を見出せないのは分かるけど。

 

ある時、とっさに車で逃亡を図る。

高校のバスケのコーチのトセロと再会し、彼が連れていた女性2人組のうちの一人、ルースと関係を持つようになる。

このルースは、娼婦みたいなこともやっているから、最初はその感じで付き合ったのかもしれないけど、結局交際が始まって短期間一緒にいることになる。

でも、結局体の関係から始まってるし、二人の関係の浅さには呆れてしまうほど。

 

ハリーの逃亡は近所でも噂になり、牧師のエクレスがハリーと話をしにくる場面が続いたりなど。

エクレスは、牧師として、ハリーの生き方に少しでも助言ができればと考えている。

ハリーも、エクレスの好意を決して疎んじることはない。

それでも、夫婦生活をもとどおりにすることがもはやハリーにはできそうにない。

 

ルースのもとにブラブラといたハリーだったが、ジャニスの出産には流石に立ち会わねばと考え、ルースを置いて家に戻って行く。

ルースは、ハリーの結婚の事実も何もかも知っていたけれども、それでも辛くて涙する。

ルースだって悪いけど、ハリーって本当にどうしようもない男。

妻や子供は放って逃げるわ、逃げた先で関係を持った女とも中途半端だわ、こういう男は一番嫌いなタイプ。

ジャニスは無事女の子を出産。

出産後はしばらく家にいたハリー。

それでも、やはりジャニスとの関係は芳しくない。

そこで、またハリーは家を出てしまう。

26歳の大人の男が何してんねん・・・。

無責任極まりない。

はあー。。。本当に呆れる。

 

ハリーがいない間、ジャニスは心身ともに不安定で、生まれたばかりの赤子を溺れ死なせてしまうというなかなかの悲劇で幕を閉じる。

葬式にて、ハリーは赤子を溺死させたのは俺ではない、妻だ!とでも言いたげな宣言を突然始める。

これには、周りの人々もドン引き!

信じられない!というような目つきでみんなに見られた後、葬式会場を後にするハリー。

 

とにかく、最初から最後まで意味不明すぎた・・・。

何だろう、何が面白くなかったのかも分からないぐらい作品として、小説として良くなかったように思う。

今、この作品がほとんど顧みられていないのは、正しいことなのかもしれない。

 

とはいえ、ウサギシリーズの第2作以降ではピューリッツァー賞も受賞しているのだから、評価はされている作家であり作品なのだ。

では、なぜここまで面白くなかったのか・・・。

私にはその答えは分からない。

 

ハリーという人物に私はほぼ嫌悪感しか湧かなかった。

これが一番の理由かもしれない。

結婚しているのに、無責任。

妻や子供のことより考えるのは自分のことばかり。

娼婦と関係を持って、バカみたいな恋愛。

娼婦とはいえ一人の女性であるルースに対しても配慮のない言動。

浅はか、無責任、つまらない、頼りない・・・

男性の性質として最悪のものをいくつも兼ね備えているのがこのハリー・アングストロームなのである。

 

だから、彼にも不幸はあるのだけど、全く同情も共感もできなかった。

とにかく、大人になれ、責任を持て、フラフラするな、ちゃんと仕事してちゃんと生きろ、そう言ってやりたくなる男。

唯一、26歳という若い年齢設定が救いかもしれない。

26歳のまだまだ未熟な男が、何も分からないまま結婚して子供を持ってしまった、そんな話にすら思えるのだ。

 

アメリカの普通の人々の普通の日常を描くことで、悲劇を表したかったのだというが。

この時代からアメリカの悲劇っていうのは、よく聞かれる話だったのかな〜。

何も地位や名声を得たものだけが、突き落とされて不幸になるわけではない。

普通の生活を送る普通の人々にも悲劇というものは迫っているのだ。

 

ただ、この話からそれを読み解けというのは少し難しかったかな。

内容が浅い。

うーん・・・。

ここまで酷評する気はないものの、どうしても、あまりにもつまらなかったのでこうなってしまう。

 

読むか読まないかはあなた次第。

ただ、評価はされている作品であるので、私の気に入らなかった、ただそれだけのことだ。

 

真夜中の子供たち by Salman Rushdie

最初にこの作品を知ったときは、Midnight's Childrenという英語の原題で知った。

それでもChildrenという名前から、児童文学なのかと思っていた。

児童文学でなくても、子供たちが出てくるのなら易しめのお話かな、と。

ところがどっこい、その真逆も真逆。

今まで読んだ中でも一番読みづらい、と言ってもいいぐらいの難解さでは他に類を見ないレベルのものだった・・・。

本作品が発表された1981年当時は非常な賛辞と高い評価を得て、ブッカー賞も受賞したとのこと。

さらに、ブッカー賞中のブッカー賞も本作が受賞している、まさに世界が認める傑作なのだ。

今回読んだ、早川書房の見開きには、作品に寄せられたベタ褒めの数々が紹介されていた。

例えば、

ガルシア・マルケス百年の孤独』以来の衝撃」

とか

「インドは一人の光り輝く小説家を産み出した ー 驚くほど想像力に富み、知性にあふれ、息もつかせぬストーリーテリングの才に秀でた小説家を」

などなど。

その中に、

「インドは自分のギュンター・グラスを発見した」

というものがあった。

あ、確かに数年前に読んだ『ブリキの太鼓』を彷彿とさせる世界観があった。

この『ブリキの太鼓』も小難しい話だったなー・・・。

riza.hatenablog.com

今読み返しても感想がテキトー過ぎるから、数年後にまた読み直そう・・・。

 

 

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あらすじはウィキペディアを見てください。

真夜中の子供たち - Wikipedia     

 

非常に、難解な内容ではあるのだけど、それを補ってあまりあるほど面白い内容だった。

語り手のサリームは、愛人パドマに自身の身に起こった出来事を語り聞かせている。

自分自身だけではなく、祖父のアーダム・アジズと祖母ナシームとの馴れ初め、その子供たちであるアリア、ムムターズ、エメラルド、ハーニフ、ムスタファらのこと、サリームの出生の秘密、乳母のメアリー・ペレイラなどなど、3世代にわたる家族の身に起こった様々な話をこと細かく聞かせてくれるのだ。

祖父の次女ムムターズは、最初の夫ナディル・カーンとの結婚生活破綻後、姉のアリアと一時期関係のあったアフマド・シナイと二度目の結婚をする。

そこで誕生したのがサリームである。

しかし・・・この出生には大きな秘密、あるいは罪が隠されている。

ここは、物語の核心というか、中盤で明かされることなので、ぜひ読んでからのお楽しみに。

メアリー・ペレイラと恋人で革命家のジョーゼフ・ドゥコスタの話や、芸人ウイー・ウイリー・ウインキーとその息子シヴァ、産婦人科医でありながら中絶を推奨するナルリカル医師、資産家メスワルドなど、癖の強い登場人物たちがとにかく出てくる出てくる。

サリームと全く同時期に生まれたシヴァとの関係などは非常に、なんというか、不思議で面白い。

 

サリームが生まれたのは、1947年8月15日の真夜中。

これは、インドがパキスタンを分離し、独立した日と同じ日である。

つまり、真夜中の子供たちとは、インド独立の日と同時期に生まれた子供たちを指す。

サリームやシヴァもその子供たちであり、“魔女”パールヴァティなど、他のあらゆる子供たちが真夜中の子供たちとして、それぞれ特殊な能力を持って生まれてきたとされる。

サリームの場合は、異常に発達した嗅覚や、他人の心情に入り込める、精神旅行というテレパシー的能力が、魔女パールヴァティは文字通り魔法が使える、など。

性転換できたり、時空旅行ができる子供たちもいた。

なんじゃそりゃ、となりそうな内容ではあるが、マジックリアリズムとはまさにこのような作風のことをいうのだろう。

 

実際、インド・パキスタン分離・独立の話や、印パ戦争の話など、現実に起こった歴史的政治的出来事を題材にしながら、特殊能力を持った子供たちの運命を描くというあたりに、現実と幻想を織り交ぜるマジックリアリズムの真髄が見えるのだ。

 

私の生まれはボンベイ市・・・・・・某年の某月某日のこと。

いやそれじゃだめだ。

人間、日付から逃れるわけにはいかないもの。

それならナルリカル医師の産院で一九四七年八月十五日生まれさ。

時間は?

時間も重要なのだ。

えーと、それなら夜だ。

いやもっと正確に・・・・・・えーと、実は真夜中かっきりだった。

時計の針が恭しく合掌して私の誕生を迎えてくれたわけだ。

ほう、もっとくわしく。

つまり、まさにインドの独立達成の瞬間に、私は呱々の声をあげたわけだ。(11)

 

この作品の独特な文章の感じをわかってもらうために、冒頭抜粋。

 ここだけでも、なんだか不思議な空気が流れているのを察知していただけるのではないかと。

これからどんどんおかしくなっていくので、要注意。

 

次に、ちょっと印象に残った場面から。 

毎日彼女はアフマド・シナイの一断片を選んで、全身全霊をその断片に向けて集中した。

それがまったく親密なものになるまで、心のなかに好感が湧いてきて、それがやがて情感になり、ついに愛になるまで。

このようにして彼女は夫の大きすぎる声、その声が彼女の鼓膜にぶつかって、彼女を震え上がらせるという野蛮さまで好きになった。

毎朝ひげを剃り終えるまではいつも上機嫌なのに、そのあとでは気むずかしく、粗暴で、ビジネスライクで、よそよそしい態度に変るという独特な傾向も。(83)

 

これは、サリームの母親ムムターズ改めアミナ・シナイが夫のアフマド・シナイについて考えている場面だ。

彼女には前夫ナディル・カーンとの間にあった色々な想いが残っているため、新しい夫に対する愛情にはどこか変わった部分があったように思う。

本気で愛して結婚した、とはちょっと違う何かが。

そこで、彼女は夫を愛そう、夫の全てを惚れていこうと決意したわけで、それゆえこんな風に、一見欠点で愛せないと思えるような部分をこそ愛そうと努力した、のだそうだ。

結婚したことがないから分からないけど、結婚するときにはこういう思いも大切なのかな。

相手の全てを愛そうと努力することも・・・?

 

「多頭の怪物たち」という題名の章がある。

ここでは、放火グループの話なんかが挿入されているが、この放火グループは実際の話なのかなぁ。

ちょっとそれは分からないけど。

あとは、アミナが予言者の元に行って、お腹の子供のことを予言される場面とか。

お腹の子供とはつまりサリームのこと。

その時の予言では、

 

「頭が二つあります ー でも人には一つしか見えません ー 膝と鼻、鼻と膝、があります」

「新聞がこの子を誉め、二人の母がこの子を育てる!自転車乗りがこの子を愛します ー が、群衆がこの子を突きとばします!妹が泣き、コブラが這い・・・・・・」(107)

 

予言者ラムラムのこの予言は、最初に読んだときは、意味不明だったけど、最後まで読んでまた読み返すと、あーなるほど・・・。

と理解できる。

一見意味不明なこんな文章でも、いずれ意味のあるものにちゃんと理解できるように、ちゃんと意味をなすように、サルマン・ラシュディが用意してくれている。

こういう伏線を張る作家って、すごいなと毎回思う。

こういう感じの描写がほとんどなので、読みづらいと思う人はおそらく最後まで読む根気を保てないかもだけど、最後まで読めさえすれば、こういった描写にも意味があったんだって気づけるはず。

 

物語中盤で、妹ブラス・モンキーが誕生する。

これまたけったいな名前・・・。

インド独立の誕生とともに生まれた子供として注目されていたサリームとは違って、ブラス・モンキーはただの子供。

それゆえ、彼女はいつも派手なことをしては注目されようとしていた。

そんな彼女が注目されるために働いたことは、放火。

というか人の靴に火をつけて遊ぶこと。

この危険な遊びは彼女がある程度大きくなるまで続く。

しかし、最初こそ兄と妹の関係は兄の方に軍杯が上がっていたものの・・・

いずれブラス・モンキーは、ジャミラ・シンガーという名前に代わりパキスタンを代表する歌姫となり、莫大な人気とファンを勝ち取り、家族の中でも一番の存在となるのである・・・。

 

10歳の誕生日を迎えたサリーム君。

彼は、Midnight Children's Conference略してMCCなるものを結成。

最初の方に書いたけど、彼は精神旅行ができ、人の心に入り込み、操作もできるような特殊能力を持っていた。

そのため、彼は他の581人もの真夜中の子供たちとテレパシーで交信し、MCCの会議で彼らと交流を持とうとしたのである。

 

さて、サリームにとって因縁の関係にあるシヴァだが・・・。

彼はかなり凶暴な人物として描かれるものの、私はなんだか嫌いになれなかった。

彼は、芸人の息子として育ったが、実は・・・。

という人物である。

母親は彼の出産時に死亡。

父親ウインキーは想像通り貧しく、シヴァはスラム街で育ったような経歴の持ち主だ。

対して、サリームは医師であるアーダム・アジズを祖父に持ち、父アフマドも実業家という裕福な家庭であった。

ゆえに、この二人かなり対照的な環境で育ったのだが、膝と鼻、鼻と膝、と作中に何度も出てくるこの表現のように、切っても切れない関係にあるのである。

そんなシヴァ、登場回数はそんなに多くないし、発言も少ないけどその少ない発言の中に結構どしんと来るものがった。

 

「お前には分かってないことが一つある。何が目的だい、ええ?

この糞いまいましい世界のいったい何に、理由があると言うんだい。

どういう理由によって、お前は金持でおれは貧乏なんだい。

餓えるということに、どんな理由があるんだい。

この国には何百万もの無知な人間がいるというのに、お前は一つの目的があるんだと言う。

おい、いいか ー 人は手に入れられるだけのもを手に入れなきゃならない。

それを使ってやれるだけのことをやらなきゃならない。

そのあとは死ななきゃならない。それが理由だよ、金持の坊っちゃん

ほかのことはみな、糞ろくでもないたわごとだ」(271) 

 

サリームが、真夜中の子供たち会議を発足してから、シヴァに会いに行き、その目的を説明しようと試みたものの、シヴァに一掃される場面だ。

シヴァもサリームと同じく真夜中きっかりに生まれた子供。

貧乏というハンディを背負いながら、また10歳の身でありながらすでに破壊神のような最強あるいは最恐の人物の様相を呈していたシヴァ。

彼の発言は怒気があって、スラム街を生き抜いてきた人物らしく説得力もあった。

確かに、彼にとっては。

運命とは残酷なものだもの。

ただ、ほんの少しの運命の差で、ある人物は金持ちの息子として大切に育てられ、その一方である人物は貧しい環境を生き抜いていかねばならない苦難の道を強いられた。

うん、そんな人間にとってこの世の中のことに意味や目的を見いだすのは難しいに違いない。

幸福で満ち足りた生活を送れたからこそ、呑気で理想的、また楽天主義的なことを言っていられるのかもしれない、と。

 

この後も、非常にいろいろなことが起こる、起こりまくる・・・。

とにかくめまぐるしいので、読むのが大変だということだけ言っておきます・・・。

まずは祖父の死亡があり、メアリー・ペレイラの大告白があり・・・。

 

アユーブ・カーンのクーデターそしてそれに伴う政権交代

この挿話は実話のようです。

実際に、アユーブ・カーンと言う人がクーデターを起こし、パキスタンの大統領になったそうですね。

 

また、サリームから妹ブラス・モンキーへの愛の告白などが続く。

 

そして・・・

第二次印パ戦争は1965年に国連の仲裁により終結するが、この戦争でサリームの家族はほぼ全滅してしまう。

両親、叔父叔母、祖母らはサリームを残して無残にも砕け散ったのだった。

 

本作は全3巻となっていまして、続いて第3巻に入りましょう。

サリームは戦争の後、記憶障害になる。

ブッダ」という章、ここでは彼は自分の本名サリームを忘れて、ブッダというあだ名の元で生きていたことを語る。

彼は、パキスタンの若い兵士3人組とともに行動している。

ブッダは記憶もなく、肉体的痛みも感じない麻痺状態になっている。

唯一嗅覚だけは異常に発達していて犬男と呼ばれてさえいる。

3人の兵士、アユーバ、シャヒード、ファルークに小馬鹿にされながらも、しばらくの間彼らとともに過ごすのだ。

第二次印パ戦争が引き起こした民族移動はこのように語られる。

 

統計数字のむなしさ。

一九七一年には一千万の亡命者が東パキスタンバングラデシュの国境からインドへ逃げ込んだ ー しかし一千万は(千と一よりも大きなすべての数と同様)理解を絶した数だ。

比較は役に立たない。

“人類史上最大の民族移動” ー 無意味だ。

ユダヤ人のエジプト脱出(エクソダス)よりも大きく、インドーパキスタン分離の際の集団移動よりも大きな、多頭の怪物がインドに流れ込んだのだ。

国境ではインドの兵士たちがムクティ・バヒニという名で知られるゲリラを養成していた。

ダッカではタイガー・ニヤージーが勢力を伸ばしていた。(150)

 

ここからさらに物語は続く。

魔女パールヴァティとの再会により、自分がサリームであることを思い出したサリーム。

ピクチャー・シンと呼ばれる蛇つかいらとの出会い。

魔女パールヴァティとは結婚しながらも、生殖器のないサリームと子供は持てない。

シヴァとパールヴァティが関係を持つことによって生まれた息子アーダム・シナイはサリームが我が子として育てる、など。

物語の複雑怪奇さは、今までのどんな小説よりも凄まじい。

 

「真夜中」という章にて描かれるのは、インディラ・ガンディーの発令した非常事態宣言による惨劇である。

本作中に何度も出てくる「未亡人」。

その正体は、ずっと明かされないまま話が進んでいくので誰なんだ、誰なんだ、と気になっていたけども。

「未亡人」はこのインディラ・ガンディーを指す。

インディラ・ガンディーはインドの女性首相である。

彼女の父親はジャワハルラール・ネルーで彼はインドの初代首相であり、彼もまた本作品に出てくる。

サリームが生まれた時、彼の誕生を歓迎し手紙をくれたのはこのネルーだった。

真夜中の子供たちの誕生は、誕生の時は歓迎された。

しかし、インディラの時代において、その対応は真っ逆さまになった。

つまり、彼女は真夜中の子供たちこそインドを混乱に招くとして、彼らの総逮捕を掲げたのである。

実際の歴史では、野党など反対勢力を強権で逮捕・排除したというものらしいが、作中では真夜中の子供たち、特殊能力を持った彼らがサリームも含め逮捕・監禁され、生殖器を手術により切除され、それのみではなく希望すらも切除された、とある。

ここで少佐にまで上り詰めていたシヴァは逮捕されない。

というのも彼は、真夜中の子供たちの一員でありながら、行方知らずになっていたサリームの居場所を突き止めるなどして、真夜中の子供たちを裏切ったことで、インディラ側にいたからである。

 

この章が、本作のクライマックスであることは言うまでもない。

ここまで読んで初めて、サルマン・ラシュディの言いたかったことが分かった気がした。

ここに至るまで、サリームの祖父と祖母の馴れ初めの話から、彼らの家族の細部にわたる出来事、インド独立から印パ戦争へと話は非常に複雑、入り込んでいたけれども。

この非常事態宣言、強権で反対分子を排除すると言うやり方。

これは、政治として最悪なものであろう。

それに対する激烈な批判が本書の最後に、用意されていた。

 

さて・・・

サリームは最後どうなったのか。

彼は、幾たびの苦難を乗り越えて、物語を語る現在は31歳と言う若さでありながら、初老のような風貌であると言う。

そんな彼を愛したパドマとの出会いや、彼の運命を変える最大のきっかけを与えたメアリー・ペレイラ、彼の生き残った唯一の家族である彼女との再会などが最後に描かれる。

 

とにかく、物語は壮大な世界観を最後の最後まで繰り広げながら、その幕を閉じた。

 

はー。

物語の内容をちょろっと書くだけで疲れてしまった。

まず、超長い。

長いし、文章は複雑だし・・・。

超難解だし・・・。

だから、今読み終わった段階でどう思ったのか何を感じたのか、この作品を語ることは私にはできない・・・。

それでも、面白いことは確か。

読みながら、この作家天才だな・・・と思いながら読んでいた。

よくもまあ、こんな話を思いつけるな、描けるな、と。

 

この作品を理解するために、絶対的に必要なのが、インドの歴史である。

インド・パキスタン分離・独立の背景、その後起こった3度の戦争、部族間・民族間・宗教対立、バングラデシュの歴史、政治のこと。

これらの知識がほとんどない状態で読むと、正直厳しい。

そして私はこれらの知識がほとんどなかった。

その時代の情勢に詳しい人なら、「未亡人」がインディラ・ガンディーだってことをすぐに感づいたのだろうか?

 

まあとにかく、歴史や政治を描いた作品っていうのは、その背景を知らないと非常に理解に支障が出るのだ。

しかし逆に言えば、この作品を通して歴史を知ることができたとも言える。

もちろん、誇張や比喩、マジックリアリズムで描かれる以上幻想的な要素も多いから史実としては読めない部分もあるけれど。

 

サリーム、この語り手は非常に変わった存在なのだが、彼の語る物語はすごすぎて彼が偉人か超人かにしか思えなかった。

容姿は醜く、鼻垂れ小僧で、異常に長い鼻を持っていた、事故で指を一本失い九本指で、意地悪教師に髪を引っこ抜かれたせいで頭部に禿げがあり、男性としての機能がなく、出生の秘密を持ち、特殊能力がありながらも、家族からは見放され、女性からも虐げられ・・・そんな彼だけど、本書を読み進めていく中で彼を哀れむ気持ち、同情する気持ちは当然芽生えてくる。

サリームの辿った運命はあまりにも過酷だった。

彼は、生まれたままの身分であれば、もっと幸福だったのか?あるいは?

正直分からない。

 

家族や友人というものからも見放され、完全な孤独を経験しながら、最終的にパドマという語り相手を見つけた。

実の子供でないとは言え、物語を残しておくべき息子もいる。

彼の最後は、必ずしも最悪は免れた、そう思う。

 

とにかく、インドの歴史について深く考えさせられた。

インド独立の際に、こんなことが起こっていたのか。

戦争の悲劇であるとか、強権政治の残酷さとか、恐ろしいな、とか悲惨だったんだろうな、とかの想像はできても、やっぱり本当のところよく分からないっていうのが本音だ。

riza.hatenablog.com

この作品を読んでも思ったのだけど、文学っていうのは歴史や事実を物語に挿入して、主人公や登場人物たちに語らせることによって、あるいは彼らを描くことによって、事実として読んでしまうと読み流してしまいがちな事柄を、絶対的なインパクトを持って私たち読者に残してくれるものだと感じる。

 

だからこそ、文学は不滅なのではないかと。

戦争小説や政治的な小説はどちらかというと苦手だったけど、最近はこういう作品に感銘を受けることが多いことに気づくようになった。

そして、今回もまたインドの作家が描いた作品で素晴らしいものが一つ増えましたわ。

何でしょうか、文学や映画などでインドを題材にした、あるいはインド人作家が描いた作品は非常に心に残るものが多いのです。

私は前世はインド人だったのかな、と思うぐらいインドに対するなんか不思議な共感覚が芽生えるというか。

単純に、人口が多いから秀でた人材が出てくる可能性も増えるのかな。

この作品も、難しすぎるので数年後にもう一度読み返したい。

そのときには、もっと理解しやすくなっていると信じて・・・。

 

サルマン・ラシュディを尊敬します。

素晴らしい作家であり、永遠不滅の作品だと断言できますね。

 

真夜中の子供たち〈上〉 (Hayakawa Novels)

真夜中の子供たち〈上〉 (Hayakawa Novels)

 

真夜中の子供たち〈下〉 (Hayakawa Novels)

真夜中の子供たち〈下〉 (Hayakawa Novels)

 

奇跡も語る者がいなければ / If Nobody Speaks of Remarkable Things by Jon McGregor

※ネタバレしています。

 

大学生の時、大学の図書館で何を読むか物色していたときに、そのタイトルに惹かれて借りたのがこの本との出会い。

初めて読んだときに、何とも言えない感動に襲われて、原文でも読んだり、本も買ったりした、それぐらいお気に入りの作品である。

最初に出会ったときは、本当にお宝発掘だ!と思った。

というのも、2002年に出版された作品で現代ものだし、ブッカー賞候補にも上がった評価の高い作品であるものの、日本ではあまり知られていないものだと思ったから。

掘り出し物とはまさにこのことで、こういう出会いがあるから、図書館や本屋でたまたま出会う本って捨てたもんじゃないんだよね〜。

 

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お気に入りの大好きな話なので今回また読んでみた。

物語の構成が非常に独特、飽きないし、むしろどんどん引き込まれて行く。

イギリスのとある町、7区に住む普通の人々のある1日と、そこに住んでいたメガネをかけた女の子(女子大生ぐらいと思われる)の3年後である現在とが交互に語られる構成となっている。

ある1日とは、8月31日で、この部分は3人称で語られる。

3年後の女の子の現在は、彼女の1人称で語られる。

3人称と1人称が混じっているという点でも、普段読む小説とは一味違った味わいを感じられるものだ。

 

複雑な構成なんだけど、読みにくくはなく、バラバラだと思っていたかけらたちが、最後に一気に重なり合うような鳥肌が立つような働きを持っている。

マグレガーさん、すごいな〜と単純に驚いてしまった。

彼の26歳の時のデビュー作だというのだから尚更驚く!

私と同じくらいの年齢で、こんな作品を書いたということか。

やはり、作家になる人はちがうんだなぁ。

 

描かれる内容は、非常に日常的なこと。

7区に住む、夫婦や家族、若者、一人暮らしの男の子や女の子、そして老夫婦、手に火傷を負った男性とその娘、パキスタンから移住した一家、など。

彼らの8月31日の日常が細かく、それでいて淡々と紡がれて行くのが、過去の部分。

ここでは、メガネをかけた女の子も登場してくるが、3人称で語られるので、まるで他人行儀な感じがする。

でも次の章では、彼女の1人称でかなり主観的なイメージで迫ってくるから、なんだか不思議な感じもしたり。

この不思議な感じは、実際に小説を読んでみてもらわないと分からないだろうけど。

 

19番地に住むのがパキスタンから移住した一家で、夫婦と双子の兄弟、そしてその妹。

11番地に住むのが女の子と父親。

21番地に住むのがカップル。

17番地に住むのがちょっと派手でやんちゃな若者グループ。

18番地に住むのが若い男の子、ドライアイでカメラが趣味。22番地に住むメガネをかけた女の子に、密かな想いを寄せている。

20番地に住むのが老夫婦。夫は実は病が発覚したけど、妻に告げられずにいる。

12番地に住むのが若い男。

13番地に住むのが若い男の子。

16番地に住むのが手に火傷を負った男とその娘。

そして、22番地に住むのがメガネをかけた女の子で、彼女が1人称でも登場する主人公みたいな感じだ。

 

実は、これ以外にもいるんだけど、書ききれないのでこの辺で。

あとは、1人称の部分では、女の子の母親や、セアラという友達なども出てくる。

 

内容が目新しいってものじゃないので、普通といえば普通なんだけどね。

でもなんて言うのかしら、余韻が深く残るようなそんな話なんだわ。

 

8月31日に、ある出来事が起こるのだけど、それは最後の方まで明かされない。

ゆっくり、ゆっくりと1日の最後へと話は進んで行く。

それまでに、老夫婦の絆であったり、手に火傷を負った男の苦悩だったりが見て取れる。

ドライアイの男の子は、メガネをかけた女の子に想いを寄せつつも、シャイな性格からか一歩を踏み出せなかったり。

ささやかな人々の日常や思いが丁寧に描かれている、そんな印象だ。

 

私は、1人称の部分が結構好きだ。

メガネをかけた女の子は、名前が分からない。

セアラという友達、母親、そしてマイケルという男性がキーパーソンになっている。

実は、彼女、3年前の8月31日に起きたある事件をいまだに忘れられず、ことあるごとにそれを思い出しているらしい。

今は一人暮らし。

何度も母親に電話して、ある事を告げようとするのに、いつも言えないまま電話を切る。

彼女と母親との微妙な距離感がなんだか切なかった。

娘と母親ってこんなものかしら?

もちろん家庭によるだろうけども。

彼女の母親の場合、なんだかすごく距離があるんだよね、娘に対してもどこかよそよそしかったり、気を使っていたり。

どこか、他人っぽい感じがあって。

 

とうとう彼女は、母親に事実を告げる。

それは妊娠という事実だ。

しかも、父親はいない。

母方の祖母のお葬式でスコットランドに行った際に出会った魅力的な青年との一夜の関係で出来てしまった子供なのだ。

彼の連絡先も知らない。

相手も彼女の連絡先を知らない。

探そうと思えば探せるし、伝えることもできるだろう。

でも、彼女はそれを望まなかった。

 

妊娠を知った時の母親の反応は非常に薄いものだった。

本当はすごく驚いているのかもしれないし、落胆しているのかもしれないけど、感情を表に出さない人なのだろう。

しかも、電話越しで、表情も分からない。

本当はもっと心配したり、むしろ叱ってくれるぐらいを期待していた女の子だけど、母親の薄い反応に残念な気持ちが残る。

 

She never told me things about her life, what was happening at work, who she saw at the shops, stories about her growing up and meeting my dad and moving down south. It surprises me now that I took it for granted, knowing so little about her, knowing so little about her family and where she came from.

And she didn't ask me questions either, she never used to ask where I was going, or who I was going with, or what time I was coming back, and if I mentioned it to my friends they'd say I was lucky but I wasn't so sure. (95)

 

母は自分の生活についてわたしに話したためしがなく、職場がいまどんなふうだとか、買い物にいったら誰に会ったとか話さないし、子供時代のことや、父との出会い、南に移ってきたことについても話したことがない。

母のことについて、母の家族や生まれ育った土地について、こんなに何も知らなくて、しかもそれで当たり前だと思っていたことが、いまのわたしには驚きだ。

そして母もわたしにうるさく聞かなくて、昔も、どこに出かけるのとも、誰と出かけるのとも、何時に帰ってくるのとも聞かなくて、友だちにそのことを言うと、ついてるね、と友だちは言ったけど、どうかなと当時のわたしも思ったものだ。(122) 

 

ここの部分は、彼女と母親との関係を象徴的に表す文章だった。

娘を持つ母親は娘が鬱陶しがるぐらいに、色々聞いてくるのが常だけど、彼女の母親は違った。

普通、という言い方はよくないかも知れないが、普通は娘が急に妊娠したと告白してきたとなれば、母親は驚き、うろたえ、心配し、状況によっては叱るなんてこともあるだろう。

しかし、彼女の母親はまるで他人事のように淡々とその事実を受け入れ、まるで逃げるかのように受話器をおく。

なぜ、このような関係性なのか?

母親には何かあるのか?

探ってみたくなるような神秘がここにも隠れている。

 

その後、彼女はマイケルという人物と出会うことに。

マイケルは他でもない、彼女に密かに好意を寄せていたドライアイの男の子の弟であった。

しかも双子の弟だ。

マイケルとはセアラを通して知り合い、実際に会うことになるのだが、ドライアイの兄とは違ってフレンドリーで親しみやすい。

すぐに打ち解けるふたり。

マイケルから、兄であるドライアイの男の子が自分のことを好いていたことを知らされる女の子。

しかし、彼女は彼の名前すら知らなかったこと、彼のことをそもそも知ろうともしなかったことに、3年後になって初めて気づく。

こんなに近くに住んでいて、名前すら知らなかったの?

マイケルは落胆したようだった。

 

I said but I don't know him, I said I didn't even know his name.

He didn't say anything, he looked straight at me and I wasn't sure if he'd heard me.

(中略)

He said you lived a few doors away, you saw him nearly every day, you knew lots of things about him.

He said you noticed if he got his hair cut, you had opininons about his clothes, you knew he couldn't catch a cricket ball, you knew he lived on his own, if you saw him in the street you knew him enough to say hello.

(中略)

He said and you didn't know him?

You didn't even know his name? (124)

 

 でもお兄さんとは知り合いでもなんでもないのよとわたしは言い、お兄さんの名前だって知らないのよとわたしは言った。

彼は何も言わなくて、彼は真っすぐわたしの顔を見て、聞こえなかったのかなとわたしは思った。

(中略)

君たちの家はほんの何軒か離れてただけだろ、ほとんど毎日あいつを見かけてたんだろ、あいつのこといろいろ知ってたんだろ、と彼は言った。

あいつが髪を切れば気づいただろ、あいつの服の趣味がいいとか悪いとか思っただろ、あいつがクリケットボールをキャッチできないの知ってただろ、あいつがひとりで住んでたの知ってただろ、通りであいつを見かければ、こんにちはを言うくらいの知り合いではあったんだろ、と彼は言った。

(中略)

それで知り合いじゃなかったって?と彼は言った。

あいつの名前も知らなかったって?(157-158)

 

ここの場面、わたしにはすごくグッとくるものがあったのだが、わかるだろうか?

冷めた人間からしたら、イヤそんな相手のこと興味ないし知らんがな、ってなる話かも知れない。

でもマイケルからしたら、兄の方では彼女のことを好きになりきっと色々なことを考えては、彼女と親しくなりたい、彼女のことを知りたい、彼女と話がしたいと思っていた、そのことを知っているからこそ、彼女の、「お兄さんとは知り合いじゃなかった」という言葉に傷つきもしたし、呆れもしたのだろう。

母親との関係の希薄さはすでに表れていて、そこに落胆と無念さを感じていた彼女だったけど、実は彼女自身も、人に興味を持っていなかったのではないか、と思わせる場面なのだ。

もちろん、ドライアイの男の子は彼女を好きだったからこそ、彼女のことを知りたくもあったし、知っていたのだろう。

それに比べたら、特に彼に興味を持っていたわけではない女の子の方で彼のことを知らなかった、というのはそこまでおかしいことではないのかな、とも思うのだけど。

それでも、うーん。。。なんていうのか。

兄の気持ちがないがしろにされたような感覚がマイケルにはあったのだろう。

 

物語は徐々に終わりへと近づいてゆく。

そして、8月31日の出来事がついに明かされる。

 

それは、パキスタン一家の双子の兄弟に起こった悲劇。

自動車事故だ。

双子の兄弟のうち一人が車にはねられてしまった。

この事故をきっかけに、初めて名前すら知らなかったような近所の人々が互いの存在に気づくような、そんな印象を受けた。

 

双子の子供がどうなったのかは、結局分からないけれど、8月31日はそうやって幕を閉じた。

 

最後に、女の子は病院でお腹の中の子供を検査してもらっていた。

そこで、彼女が知ったこと。

彼女のお腹の中には、なんと双子の子供がいたのだ。

マイケルに連れ添ってもらっていたのだけど、彼女はマイケルに尋ねる。

あなたとお兄さんの名前をこの子たちにもらっていい?と。

そこでマイケルは一言。

 

He says, there's something I have to tell you. (263)

 

話しとかなきゃいけないことがあるんだ、と彼が言う。(344)

 

これはどういう意味なのか?

作品を読んでみていただきたい。

 

内容自体は、ハッピーという印象は正直ない。

悲しい事故が起きるし、7区の人間関係は希薄で侘しいし、女の子と母親との関係や、ドライアイの男の子の密かな想いなんかは、読んでいてとにかく切ない。

なんだけれど、そんな不器用な人間たちを、マグレガーが優しい眼差しでそっと見守っているような気がする。

そういう感触を得られる小説なのだ。

 

印象的な場面をいくつか。

 

He says my brother isn't shy, but people never give him the chance, people don't make the effort to get to know him, nobody knows him really. (204)

 

兄は人見知りなんかしやしない、でもみんな、ちっとも兄に機会を与えようとしないんだ、みんな兄という人を知ろうと努力しない、誰も兄のこと本当には知らないんだ、と彼は言う。(264)

 

ここ、すごい好きなセリフだな。

マイケルが、女の子に対して言うセリフなんだけど。

私は双子が周りにいないので、双子のことをよく知っているわけではない。

でも、テレビとかでよく取り上げられるものなんかでは、普通の兄弟姉妹以上に強い結びつき、運命共同体的な感じがある、みたいな話をよく聞いたり見たりする。 

マイケルも、ことあるごとに双子の兄の話を女の子にする。

数分先に生まれたから兄なんだけど、でも自分の方が兄のような感覚があって、とそんなこともこぼす。

シャイな兄に、フレンドリーな弟。

きっと対照的な双子だったのに違いない。

それでも、マイケルは兄がシャイだったとは認めない。

本当は、話せば、中身を知れば、よく知り合うようになれば、面白くて興味深くていい奴なのに・・・。

人は彼に機会を与えないんだ。

これはなんだか読んでいて心に響いてしまった。

マイケルの兄を想う気持ちに。

人間って確かに、今の時代なんかは特に、人間関係を早く早く築かなきゃいけないようになっている気がする。

知り合ったらすぐに意気投合、すぐに友達になって、別に相手のことちゃんと知ってるわけではないし、深い話ができてるわけでもないけど、でもそれでいい。

周りから取り残されないように、と少し無理してでも明るい自分を演じ、周囲に溶け込むようにしているような気が。

でも、中にはマイケルの兄、ドライアイの男の子のように、そんな器用にはできない子もいるのだ。

そんな子はすぐに仲良くなることを求めるような人間たちからは理解されず、時間をかけて知り合っていくべき彼のような存在はどんどん取り残されて行くのだ。

そこに悲しさを覚える。

それが現実だ。

ただ、一人でも彼のことをゆっくり時間をかけてでも知って行こうと思ってくれる人がいればいいのだ。

その存在を彼自身も望んでいたのではないかな、女の子に対して。

 

He says my daughter, and all the love he has is wrapped up in the tone of his voice when he says those two words, he says my daughter you must always look with both of your eyes and listen with both of your ears.

He says this is a very big world and there are many many things you could miss if you are not careful.

He says there a re remarkable things all the time, right in front of us, but our eyes have like the clouds over the sun and our lives are paler and poorer if we do not see them for what they are.

He says, if nobody speaks of remarkable things, how can they be called remarkable? (239)

 

娘よ、と彼は言い、そしてこの言葉を口にするときには、彼のありったけの愛が調子にこめられていて、娘よ、ものはいつもそのふたつの目で見るように、ものはいつもそのふたつの耳で聴くようにしなければいけない、と彼は言う。

この世界はとても大きくて、気をつけていないと気づかずに終わってしまうものが、たくさん、たくさんある、と彼は言う。

奇跡のように素晴らしいことはいつでもあって、みんなの前にいつでもあって、でも人間の目には、太陽を隠す雲みたいなものがかかっていて、その素晴らしいものを素晴らしいものとして見なければ、人間の生活は、そのぶん色が薄くなって、貧しいものになってしまう、と彼は言う。

奇跡も語る者がいなければ、どうしてそれを奇跡と呼ぶことができるだろう、と彼は言う。(312-313)

 

これは16番地に住む、手に火傷を負った男とその娘の場面。

娘が、パパは天使を見たことがある?と可愛らしく尋ねたとき、父親の返答はこうだった。

この男の火傷の真相は、火事によるもので、その火事によって愛する妻を失い、自分は火傷と心に傷を負っている。

今は娘と静かに平和に二人で暮らしながらも、やはり心の何処かに空虚さを抱いているような印象がある。

 そんな彼の言葉は、作品のタイトルにもなっている「奇跡も語る者がいなければ・・・」である。

天使、と言うのは一種奇跡のようなものでクリスチャンであればその存在を信じている、またはクリスチャンでなくても、子供であればその存在を信じている、ものかもしれない。

ただ天使というものに象徴される奇跡というものは、実はこの広い世界にはたくさん散りばめられているのだ、でも、私たち人間はほとんどの場合それに気づけない。

理由は、彼が言った通り、私たちの目が雲で覆われてしまっているからなのかもしれない。

 

日常にある奇跡、今生きていること、家族や愛する人がそばにいること、花が咲き、自然に囲まれていること、美味しいものを食べられること、美しい音楽を聴けること、暖かい部屋で寝られること・・・こんな日常のささやかな出来事は実は全て奇跡なのかもしれない。

でも、それを奇跡と思わなければ、ただの当たり前のこととしてみてしまえば、なんでもないものになってしまうけど、これを奇跡と呼べるなら、私たちの日常は奇跡だらけで、その奇跡に満ち溢れた日常を不幸とも不満とも呼べるものではないことに気付けるのかなって。

マグレガーが本作で一番言いたいことは、こういうことなのかもしれない。

 

3人称の部分では、火傷の男や老夫婦、パキスタン一家などたくさんの登場人物たちの日常が事細かく描写されている。

きっと読んだ人はそれぞれお気に入りの人物やセリフ、場面などを見つけられることだろう。

私はどちらかというと、3年後の女の子の物語の方に比重をおいてしまったが、3人称の部分も非常に素晴らしいものなので、次回はそちらにより注目して読んでみたい。

と、もう次回の読む予定を考えるほど、何度も読みたいと思えるような話なのだ。

 

女の子とドライアイの男の話、そしてマイケルの話は切なさが残り、その余韻はいつまでも続く感じがある。

人間の日常をこんな風に描ける作家ってあまりいないと思う。

不思議な感覚を持った人なのだろう、マグレガーという人は。

 

とにかく、日本ではあまり読まれていなさそうなので、それが非常にもったいないと感じる。

素晴らしいこれ自体が奇跡のような作品なので、もっと多くの日本人に知ってもらい、手にとってもらいたいと思う。

マグレガーの優しすぎる眼差しをきっと感じていただけるだろう。

 

  

If Nobody Speaks of Remarkable Things

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奇跡も語る者がいなければ (新潮クレスト・ブックス)

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イリアス by Homeros

とうとう読みました!

ホメロス作『イリアス』!!!

 

ギリシアを代表する吟遊詩人ホメロス

彼の代表作『イリアス』と『オデュッセイア』。

この2作品は、大学時代から読みたいリストに載せていて、それからいつの間にか年月が経っていた・・・。

紀元前8世紀ごろの人物とされるホメロス

しかも、本作は口頭伝承だというから驚きだ。

ホメロスは盲目だったらしい。

というか、そもそもホメロスという言葉自体が、「盲人」の意味らしい。

本名は別にある。

彼が実在したのか、『イリアス』は本当に彼の作なのか、などなど色々分からない部分もあるらしいけど、まあ、ホメロス作『イリアス』として今回やっと読めたことに非常な達成感を感じている!

 

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まず、読むのにめっちゃ時間かかってしまった。

今回読んだ岩波文庫は上下巻とあるのだが、小さい文字がびっしりの上下巻だ。

しかも訳注も多く、私は全部読まないと気が済まないタチなので、訳注なんかも全部読むからそれはそれは時間がかかった。

しかも、内容は複雑な戦闘描写が多いトロイア戦争だし・・・。

現代小説とは全然違うので、まあ、普段文学とか読まない人にはまず読みにくいような作品だと思う。(途中で嫌になって本を投げ飛ばしたくなること間違いなし!)

 

これは、ギリシア叙事詩ってのを詳しく知らないのだけど、言えば詩だよね。

おそらくホメロスは、口頭で詩を詠唱していたってことかな。

でもこんな長大な話を口頭で、暗記して語れたって言うのか?

偉業だ!離れ業だ!

 

全二十四歌である。

章ではなく、歌、らしい。

でも、文章は別に普通なんだけどね。

いや、普通の現代文ではないけど。

なんて言うか、叙事詩と言われるともっと身構えるかもしれないが、現代訳だからそこまで問題なく読めるかなと。

 

あと、『イリアス』ってそもそもどういう意味なのか?だが。

これは、「イリオスの歌」の意味らしい。

イリオスとは、トロイアの別名である。

トロイア戦争を描いている作品なので、トロイアの歌、ということだろう。

28世紀前の話やで。

やば。すごすぎやん。

 

あらすじなどの概要はこちらを読めば分かりやすいのではないだろうか。

イーリアス - Wikipedia

 

一応こちらにも書いておこう。

あらすじ

トロイア戦争の末期、物語はギリシア軍第一の勇将アキレウスと王アガメムノンの、火を吐くような舌戦に始まる。

激情家で心優しいアキレウス、その親友パトロクロストロイア軍の大将ヘクトルら、勇士たちの騎士道的な戦いと死を描く大英雄叙事詩。(上巻あらすじ)

 

トロイア戦争のことをちょろっとでも知っといたほうがいいのかもしれないけど、まあそこは知らなくても別に理解はできるかな。

これまでに、ギリシア悲劇とかはいくつか読んできたので、そのおかげで今回の理解にもある程度助かった。

古代ギリシア文学を読むのは『イリアス』が初めて!というのはやめといた方がいいかもしれない。

 

とにかく、全部で二十四歌あり、長いし、内容は込み入ってるしなので、一歌ごとに区切って書いておこうと思う。

 

第一歌 

悪疫、アキレウスの怒り

 

トロイア戦争10年目、アキレウスの怒りから始まる物語。

なんでアキレウス怒ってるの?って話だが、味方軍の大将アガメムノンが勝手なことをしたからだよ。

アキレウスの愛妾(女)であるブリセイスを奪ったりしてね。

そんなアガメムノンにキレて、アキレウスは戦争に参加しない!と言ってしまう。

アカイア勢(ギリシア軍)からしたら、アキレウスは絶対にいてほしい勇者なのに、そんな彼が戦争を放棄するから辛いのなんのって。

でも、アキレウスからしたら、うざいアガメムノンを困らしてやりたいという思いもあっての、戦争放棄なのかもしれない。

 

以下は冒頭より引用。

怒りを歌え、女神よ、ペレウスの子アキレウスの ー アカイア勢に数知れぬ苦難をもたらし、あまた勇士らの猛き魂を冥府の王(アイデス)に投げ与え、その亡骸は群がる野犬野鳥の啖うにまかせたかの呪うべき怒りを。

かくてゼウスの神慮は遂げられていったが、はじめアトレウスの子、民を統べる王アガメムノンと勇将アキレウスとが、仲違いして袂を分かつ時より語り起こして、歌い給えよ。(11)

 

文章はこんな感じ。

ちょっと読みにくいけど、古代ギリシア文学は全部こんな感じ。

仕方ない・・・。

 

第二歌

夢。アガメムノン、軍の士気を試す。ボイオテアまたは「軍船の表」

 

アカイア勢の「軍船表」とトロイエ勢の「表」が羅列される。

要は、アカイア勢には誰がいて、そいつらはどこを攻撃するのか、みたいなのがこと細かく説明されます。

こと細かすぎて、読んでいてちょっと鬱陶しいぐらいです。笑

ギリシア人の名前なんか読みにくいし。

 

第三歌

休戦の誓い。城壁からの物見。パリスとメネラオスの一騎討

 

メネラオスアレクサンドロス(パリス)

トロイア戦争の元々の発端は有名なのでみんな知っていることでしょう。

簡単にいうと、スパルタ王メネラオスの妃ヘレネを、トロイアの王子アレクサンドロス(パリス)が奪ったから。

ヘレネは相当の美貌の持ち主だったという。

メネラオスの兄はアガメムノンで、ヘレネを返せ!とパリスに言うものの、拒否されたため、じゃあ戦争だ!トロイアを滅亡させてやる!ヘレネを奪い返す!ってことで、トロイア戦争勃発!

 

そんな妻を取られたメネラオスとその妻を奪ったパリスとの因縁の対決は、メネラオスの勝利。

がしかし、アプロディテという女神に、パリスは助けられる。

本作中は、ゼウスをはじめとする諸神が至る所に出てくる。

神々が運命を決したり、アカイア勢またはトロイア勢に加勢したりもしている。

ここでも、パリスは負けたものの、パリスを贔屓するアプロディテに救われた、というわけだ。

いや、人間の意志はどこに?

全部神の操作じゃないか?

と思える部分もあるぐらいだが、まあ、そこはギリシア神話がベースになっているから当たり前というかしょうがないのかもしれない。

 

第四歌

誓約破棄。アガメムノンの閲兵

 

ここでは、ゼウスと妻ヘレの口論なんかも描かれる。

メネラオスが矢で射られたり・・・。

 

第五歌

ディオメデス奮戦す

 

ディオメデスはアカイア勢の戦士。

トロイア勢のパンダロスやアイネイアスに傷を負わせた。

 

第六歌

ヘクトルとアンドロマケの語らい

 

ヘクトルトロイア勢の総大将、彼の妻アンドロマケとの語り合いがここではメイン。

あ、ちなみにパリスとヘクトルは兄弟で、ヘクトルが兄。

ヘクトルはこれから戦いに行くということで、おそらく最後の別れになるであろう妻子との時間を静かに過ごす。

 

第七歌

ヘクトルとアイアスの一騎討。死体収容

 

アポロンと女神アテネが、「休戦させよう」って言って休戦させる。笑

神が休戦させたり、いずれかを援護して勝たせたりするので、神ありきの戦争なんだよ、まったく。

神が決めてるやん、全部って思ってしまう。

 

第八歌

尻切れ合戦

 

戦闘二日目。

ヘクトルが遂にアカイア勢の船陣に迫る。

ゼウスは神々が戦闘に介入することを禁じる。

 

第九歌

使節行、和解の歎願

 

アカイア勢がトロイア勢に押され気味になり、アガメムノンは落胆。

国許へ引き上げることを提案するが、ディオメデスに反対される。

ネストルは、アガメムノンに己の非を認めアキレウスに謝罪するよう勧める。

アガメムノンは勧めを受け入れ謝罪するが、しかし、アキレウスに拒絶される。

相当プライド高いで、アキレウス

 

第十歌

ドロンの巻

 

アガメムノンは不安で夜も寝られなくなる。笑

敵陣偵察のため、ディオメデスとオデュッセイアを敵陣に送る。

トロイエ勢の方でも、ドロンが恩賞欲しさに偵察の役を引き受ける。

 

「同行する仲間を、わたしが自分で選べということであるなら、わたしとしては神の如きオデュッセウスをどうして忘れることができよう。

彼こそは、どのような難しい仕事においても、誰よりも進んでことに当たる気概と意地を忘れぬ男であるし、パラス・アテネのお気に入りでもある。

彼が同行してくれれば、われらは炎々たる猛火の中からでも、揃って無事に戻ってこられると思う。

人並すぐれて才覚の働く男だからな。」(314)

 

上記はディオメデスの言葉より。

オデュッセウスは主人公ではないけど、本作でも目立つね。

オデュッセウスは、ホメロスのもう一つの作品『オデッュセイア』で中心に描かれる人物だから、ホメロスも特に関心を持っていた人物なのだろう。

 

第十一歌

アガメムノン奮戦す

 

戦闘は三日目。

 ネストルがパトロクロスに、若き日の手柄話を延々と語るシーンが印象的。

 

第十二歌

防壁をめぐる戦い

 

ヘクトルの奮戦もあり、遂に防壁を破って壁内に突入する。

 

上巻はここまで。

さて、次は下巻に突入。

 

あらすじ

勇将アキレウスを欠き苦戦するギリシア軍。

アキレウスの武具を借りて一時はトロイア軍を敗走させたパトロクロスも敵将ヘクトルに討たれる。

死を覚悟して復讐戦に立ち上がるアキレウス。(下巻あらすじ)

 

第十三歌

船陣脇の戦い

 

アカイア勢では、両アイアス、イドメネウス、メリオネス、メネラオスらが、

トロイア勢では、ヘクトルアイネイアス、デイポボスらがそれぞれ衝突する。

 

第十四歌

ゼウス騙し

 

劣勢になったアカイア勢、アガメムノンは再度引き上げを提案するが、オデュッセウスとディオメデスに反対される。

てか、どんだけ弱腰やねん、アガメムノン・・・。

ゼウスに戦闘介入を禁止された神たちだが、妻ヘレが一策を講じ、色仕掛けでゼウスを眠らせて、その隙に、アカイア勢に活を入れる。

それによってアカイア勢は戦果をあげていく。

出ました!また神の介入!

どんだけ人間にちょっかい出すねーん!!

 

第十五歌

船陣からの反撃

 

目を覚ましたゼウスは騙されたことに気づき、激怒!

元々、トロイエ勢を応援しているゼウス。

アポロンに、ヘクトルの再起と援護を命ずる。

これにより、アカイア勢は再び劣勢に。

 

第十六歌

パトロクロスの巻

 

パトロクロスアキレウスに歎願し、彼の武具を借りて戦場に向かう。

パトロクロスの奮戦により、アカイア勢は敵を追撃する。

がしかし、アポロンにより戦闘力を奪われ、ヘクトルによってとどめを刺され、パトロクロスは亡くなる。

 

第十七歌

メネラオス奮戦す

 

アカイア勢のメネラオスは、パトロクロスの遺体を守って勇戦する。

パトロクロスアキレウスの親友だった。

 

第十八歌

武具作りの巻

 

親友パトロクロスの死を知ったアキレウスは激しく歎く。

アキレウス、復讐のため遂に出陣を決意する!

 

第十九歌

アキレウス、怒りを収める

 

アキレウス、武具を受け取り、戦場へ!

アガメムノンアキレウスは和解する。

 

第二十歌

神々の戦い

 

ゼウスは諸神に戦闘への介入を許す。

なぜか、気が変わったゼウス。笑

アカイア勢側はヘレ、ポセイダオン、アテネ

トロイエ勢側はアポロン、アレス、アルテミスら

それぞれ自分が応援したい戦陣を応援するわけだ。

 

アキレウスアイネイアスの戦いも見どころ。

 

「これまでも彼等はアキレウスの姿を見ただけで怖じ気づいていたのだから、ましてや彼が戦友のことで怒り心頭に発している今、定まっている運命にも逆らって、城壁を破ってしまいはせぬか、それが案ぜられる」(252)

 

これはゼウスの言葉。

どういうことかというと、アキレウスはトロイエ落城以前に死ぬ運命であるから、彼がトロイエを陥すことは運命に反することになる、ということだ。

つまり、アキレウスは死ぬ運命にあって、それは絶対に避けられないことだから、いくら彼が絶対的に強い戦士であろうとも、いくら彼が復讐心に燃え立って激突してきても、彼がトロイエを陥すことはありえないということなのだ。

結局全ては運命。

これには逆らえないんだね。

現代は、科学とかが進歩して宗教とか神の存在などが古代より影響力を失っていると思われる時代だが、それでも多くの人間は何か不幸や不運なことが起きたりすると、これは運命なんだ、抗えないんだ、となるものだ。

ましてや、古代ギリシアのような時代だと尚更だろう。

自然災害や戦争など、多くの苦悩がこの時代にもあったのだろうけど、そこに生きる人々は、運命の不条理さに嘆きながらも受け入れて生きていったんだろうな。

古代ギリシア時代の人々に想いを馳せてしまう場面だった。

 

第二十一歌

河畔の戦い

 

アキレウスが多数のトロイエ人を討つ。

神々同士の戦闘も行われる。

 

第二十二歌

ヘクトルの死

 

さすがにかわいそうな最期だった。

ヘクトルも、アカイア勢の人間を討ち殺しまくってるが・・・

そんなヘクトルもとうとう斃れる。

でさあ、死んだらそのまま放っとけばいいのにさ・・・。

引きずり回したりするわけよ、アキレウスが。

残虐非道で、この部分で、アキレウス大嫌いになった。

ひどい!最悪!きもい!

そんな感情が渦巻いた。

アキレウスからしたら、親友のパトロクロスを殺されて恨みが強かったのだろうけど、戦争なんてどっちもどっちなんだから。

 

第二十三歌

パトロクロスの葬送競技

 

この競技の意味がよく分からなかった。

なんで、普通に厳かに葬儀をしないのだ?

なぜ競技をするのだ???

 

第二十四歌

ヘクトルの遺体引き取り

 

トロイエにて葬儀。

なんとか、ヘクトルの父親プリアモスアキレウスからヘクトルの遺体を引き取ることができた。

アキレウスもなかなかの残虐な男だが、母親の忠言なんかもあって、最終的には折れた。

 

ヘクトルを特に好きだとかは、一切思ってないけども、最後に自分の地で父親、妻子、同国民の元で遺体を引き取られ、葬儀を行ってもらえたのはせめてもの救いだったように思う。

 

「苦しいことごとは、辛いことではあるが、胸の内にそっと寝かせておきましょう。

心を凍らす悲しみに暮れたとて、どうにもなるものではない。

そのように神々は哀れな人間どもに、苦しみつつ生きるように運命の糸を紡がれたのだ ー 御自身にはなんの憂いもないくせに。」(403-404)

 

一人、敵陣に息子の遺体返還を歎願に来たプリアモス

そんな老王を哀れながら、またその勇気を讃えながら、アキレウスが発した言葉である。

ギリシア神話ギリシア悲劇など、古代ギリシア文学では、神による人間への情け容赦ない試練という概念が、常に根底にあるように感じる。

全ては神の仕業なり。

神により、我々人間は苦しみの中で生きていくように決せられているのだ、と。

 

第一歌から第二十四歌まで、概要をざっと書いた。

こうでもしておかないと、数ヶ月後にはどんな内容だったか忘れてしまいそうだから。笑

 

最後に、ヘシオドス作の「ホメロス伝」という文章も挿入されていた。

これは、ホメロスの生涯を紹介している文章だ。

 

そこで気になったのは、ホメロスの本名は、メレシゲネスであるということ。

そして、冒頭にも書いたがホメロスとは盲人の意味であるということで、彼は若くして盲目になった人だったのだ。

 

ホメロスは詩によって人々から受けた恩に報じようと考え、まず『オデッュセイア』の中で、イタケ人メントルに恩を返した。(472)

 

ホメロスは、盲目になってから苦難の日々を過ごした。

そんな中でも、彼に助けの手をのべてくれた人たちは少なからずいた。

彼は、そんな人々を自身が語る作品の中に登場させることによって、恩を返したのだと言う。

素敵なエピソードだ。

 

はあ、長かった。

読むのに、2週間ぐらいかかったんじゃないかな。

読もう読もうと思いながらずっと先延ばしにしていた大作を読めたので、達成感はすごいものがあるけど。

 

おもしろかった。

ところどころ、神々の言動にツッコミたくもなったけど。

戦争の描写は凄まじいし、こんなに生き生きと鮮明に戦争を描いている作品もなかなかないだろうなと思う。

いかに、神々がこの時代に大きな影響力を持っていたのかもすごくよく分かる作品だ。

 

メインキャラではないものの、オデュッセウスが気に入った。

なんか、勇敢で男気があるんだよね、この人。

アガメムノンアキレウスはあんまり好きになれなかった。

アガメムノンは、こちらを既に読んでいるから余計にかも。

 

riza.hatenablog.com

 

ヘクトルが亡くなった後、父親の苦悩や妻の悲しみには同情した。

戦争はお互い様、ヘクトルだって多くの人々を殺しているし、アキレウスだってパトロクロスを始め大切な人を失った。

それでも、人間同士本当は分かち合えるはずなのだが。

パリスとヘレネの騒動から、こんなに大きな大戦争にまで発展し、最終的にはトロイアが破滅してしまう、この悲しさはなんとも言えないものがある。

ギリシアって、本当に壮大な世界観を持った国だったんだなー。

人間だけが登場する戦争物語ならまだしも、ここにゼウスはじめとする神々が登場するから、物語は余計に入り組んだ感じになる。

神々も、結局は人間のデカイ版みたいな感じで。笑

彼らも嫉妬や口論、諍いなんかを起こしてるしね。

やってること、言ってることは人間と同じなんだよね。

 

次は、『オデュッセイア』を読みます!

ホメロス作としては、『オデュッセイア』の方が、より面白そうな気がするので。

これもきっと長いんだろうなー・・・。

 

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈上〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

イリアス〈下〉 (岩波文庫)

 

 

 

 

 

星の王子さま/The Little Prince by Antoine De Saint-Exupery

大好きな作品は、何度も何度も読み返す。

星の王子さま」もそんな作品の一つ。

 

最初に読んだのは確か、高校生の時だった気がする。

もうはっきり覚えてないけど。

こんな素敵な話だったんだ!って驚いたのを覚えている。

有名すぎて逆に読む気が起きなかったんだけど、読んで本当に良かった!って思えた作品。

その後、大学生の時には英語でも読んでみた。

どんな言語で読んでも良いものは良い。

 

そして、何年待たせたか、やっと本を買ったのでまた改めて読んでみた。

英語版を買ったけど、今度は日本語版も買っておこうっと!

 

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こんなに優しい話もなかなかないよなぁって思う。

サン=テグジュペリはすごく優しくて穏やかで、そして繊細で美しい心を持った人だったんだろう。

じゃないとこんな話は書けない。

 

飛行機のエンジン不具合で砂漠に不時着してしまった飛行士である「ぼく」の目の前に現れたのは、どことなく儚げな、それでいてまっすぐな眼差しを持った小麦色の髪の毛を持つ王子だった。

突然現れた王子は、「羊を描いてよ」と「ぼく」にせがむ。

「ぼく」は小さい頃絵描きになりたかったのに、自分が描いた絵を大人に理解してもらえず、わずか6歳にしてその夢を諦めていた。

彼が描けるのは、大人たちに理解してもらえなかった、ボアがゾウを呑み込んでいる絵ぐらい。

きっと王子にも分からないだろうと思っていた「ぼく」だったが、驚くことに王子はその絵を理解してくれた。

「ぼく」は羊を描いてやり、そこから2人の会話が始まる・・・。

 

王子は質問ばかりするけど、「ぼく」の質問にはなかなか答えてくれない。

そのあと、徐々にミステリアスな王子の身の上が語られる。

小さな星に生まれたこと。

一輪のバラを育てて慈しんでいたが、仲違いして星を出てしまったこと。

いくつかの星を巡ったこと。

そこで出会ったヘンテコな大人たちのこと。

そして、最後に地球にやってきたこと。

 

王子のバラを想う気持ちはものすごく繊細だ。

王子の方では、バラを傷つけないように必死だけど、バラはプライドが高く不本意ながらに繊細な王子を傷つけてしまう。

王子って優しさの塊みたいな存在なんだけど、バラとはうまくやっていけなかった。

なぜなら、プライドが高く付き合いにくいバラとの関係を、星を出て行くということで放棄してしまうのだから。

バラのことを大好きなのは、王子自身が一番よくわかっているはずなのに。

それでもバラを置いて行くしかなったのはなぜだろう?

 

王子は、羊を描いてもらった後、羊がバラを食べてしまうことを知る。

たとえ、棘があっても無駄で、そんなものでは身を守れないことを知る。 

王子は不思議に思う。

バラには棘があるけれど、そんなもの実際にはなんの役にも立たない。

そんな棘では、羊から身を守ることだってできない。

なのに、なぜ、バラは何億年もの間まるで意味のないような小さな棘を身を守る盾として身につけてきたのか?

「ぼく」に尋ねる王子だけど、エンジンが気がかりで忙しない「ぼく」は適当に答えてしまう・・・。

王子は、こんな大事なことを大事じゃないと切り捨てるような「ぼく」に怒りを露わにした。

 

"For millions of years flowers have been producing thorns.

For millions of years sheep have been eating them all the same.

And it's not serious, trying to understand why flowers go to such trouble to produce thorns that are good for nothing?"

(中略)

"If someone loves a flower of which just one example exists among all the millions and millions of stars, that's enough to make him happy when he looks at the stars. He tells himself, 'My flower's up there somewhere...' But if the sheep eats the flower, then for him it's as if, suddenly, all the stars went out. And that isn't importnat?" (21)

 

何億もの星のどこかに、自分の愛した花がいる。

そう思えるだけで、幸せになれる。

あの星空のどこかに、ぼくの愛した花がいるんだって・・・。

でも、羊がその花を食べてしまったら?

彼にとって、すべての星は消えてなくなるのと同じことだ。

それがどうして大事なことじゃないなんて言えるのだろうか?と。

王子は顔を真っ赤にして「ぼく」に訴えた。

「ぼく」は心の底から反省した。

そして、自分もいつの日にか、つまらない大人になってしまったことを恥ずかしながら知るのだった。

 

また、他にも興味深いのは王子がいくつかの星を巡った時の話。

そこで出会った数々のヘンテコな大人たちのこと。

王様、うぬぼれ屋、呑んだくれ、ビジネスマン、地質学者、そして点灯夫。

点灯夫だけは王子は素敵だと思えた。

なぜなら、彼だけは唯一、自分以外のためを思って働いている、生きていると思えたから。

王様は敬礼されることを求め、うぬぼれ屋は褒められることを求め、飲んだくれは酒飲みであることを忘れるためだけに酒を飲み続け、ビジネスマンは虚栄心から星を買いあさっている。

これらの大人たちのほとんどは、王子にとって意味のある生き方をしているように思えなかった。

この作品は、ドキリとする台詞がたくさんあるのだが、ここでもあった。

 

星を所有することに躍起になっているビジネスマン。

星に番号をつけて、高額なお金を払ってただ所有しているだけの彼は、虚栄心とか富への浅はかな執着心を持った大人を代表しているように見える。

そんなビジネスマンを不思議に思った王子はこんなことを言い残して、彼の元を去る。 

 

"I own a flower myself," he continued, "which I water every day. I own three volcanoes, which I rake out every week. I even rake out the extinct one. You never know.

It's of some use to my volcanoes, and it's useful to my flower, that I own them. 

But you're not useful to the stars."(39-40)

 

「ぼくは花のために毎日水をやった、火山を毎週整備した。

火山のために、花のためになることをしたんだ。

でも、あなたはその星にとってなんの役にもたってないね」 と。

 

地質学者に勧められて、最終的に地球にやってきた王子。

地球では、「ぼく」に出会うまでにすでに色々な経験をしてきたことがわかる。

ヘビとの出会い、庭に咲いた何千ものバラたちとの出会い、そして最も重要なキツネとの出会い。

王子は、宇宙でたったひとつの存在だと信じていた彼のバラが、実は地球に何万も咲いているような平凡なバラだったことを知ってしまう。

その時の王子の悲しみは言葉に出来ないものだった。

バラは、自分が宇宙で唯一の存在だと言っていた。

あのバラが、地球上に咲き誇るこのバラたちを見たらさぞかし決まり悪そうにするだろうな、、、そんな風にも思う。

繊細な王子はここで泣いてしまう。

自分にとって唯一であり特別である存在だと思っていたものが、実はどこにでもある平凡な存在だったという事実。

 

王子はその後キツネに出会う。

このキツネとの出会いが本作のクライマックスではないかなと思っている。

キツネは、王子に自分を飼い慣らしてくれ、とせがむ。

最初こそ王子も渋ったけど、キツネの熱意に負け、とうとう飼い慣らしていくことにする。

ここでもいいことを言うんだよな〜キツネったら。

 

"For instance, if you come at four in the afternoon, I'll begin to be happy by three. The closer it gets to four, the happier I'll feel. By four I'll be all excited and worried; I'll discover what it costs to be happy! But if you come at any old time, I'll never know when I should prepare my heart... There must be rites." (60-61)

 

例えば、王子が4時に来ることが分かっていれば、3時からワクワクして来る。

時間が近づけば近づくほど、どんどん嬉しくなって来る。 

これってすごく素敵な感覚だな〜。

キツネってなんでこんな素敵なやつなんだろう。

 

そして・・・私が一番好きな場面はここだ。

 

That was how the little prince tamed the fox.

And when the time to leave was near:

"Ah!!" The fox said. "I shall weep."

"It's your own fault," the little prince said. "I'll never wanted to do you any harm, buy you insisted that I tame you..."

"Yes, of course," the fox said.

"But you're going to weep!" said the little prince.

"Yes, of course," the fox said.

"Then you get nothing out of it?"

"I get something," the fox said, "because of the colour of the wheat."

Then he added, "Go look at the roses again. You'll understand that yours is the only rose in all the world. Then come back to say good-bye, and I'll make you the gift of a secret." (61-62)

 

キツネを飼い慣らした王子。

そして、とうとう別れの時が来たときに、キツネは泣きそうだと言う。

「泣いてしまう、悲しくなってしまうのなら、飼い慣らしたことは良くなかったんじゃないか?」と王子は聞く。

「いや、違うよ。小麦の色のおかげでね」とキツネ。

キツネは飼い慣らされる前に、王子にこう伝えていた。

最初こそ、キツネにとって王子の存在は特別じゃないけど、いずれ友達になれば・・・王子の金色の髪の毛と同じ色の小麦畑を見るたびに、王子のことを思い出して幸せになれるだろう、と。

だから、たとえ別れなくてはならなくても、それがどんなに悲しくても、無意味なことなんて何もなかったんだ、と。

そして、私が一番グッと来たのは最後の一文だ。

「もう一度庭にあるたくさんのバラを見に行ってごらん。君のバラが、この世でたったひとつのバラだってことがわかるから。」

 

キツネってなんていいやつ。

もちろん、彼も王子と仲良くなりたいって思ったのは間違いないけど。

王子とバラの関係を思って、王子に君のバラは唯一無二の存在なんだよ、ってことを教えるために、王子との友情を結んでくれたようにさえ思える。

最初はお互いになんでもなかったキツネと王子。

それでも一緒に過ごす時間が長くなるたびに、相手のために何かをしていくたびに、相手は特別な存在へと変わっていく。

たくさんいる中の一人ではなく、唯一無二の存在に。

 

王子は、言われた通りもう一度庭のバラを見に行く。

そして、確信する。

自分が愛したバラは、ここに咲く何千ものバラとは全く違う存在であるということに。

あのバラは、ぼくが毎日水をやった、守るためにガラスの中に入れてやった、文句を聞いてやった、何も言わないときでも耳を傾けた、何より、彼女は「ぼくの」バラだった、と。

 

そして、キツネは本作の中で最も有名な言葉を王子に贈り、王子と別れたのだった。

 

"Anything essential is invisible to the eyes."

"It's the time you spent on your rose that makes your rose so important."

"You become responsible forever for what you've tamed. You're responsible for your rose..." (64)

 

数字やお金、外見、そういった目に見えるものにしか興味のない、または目に見えるものからでしか物事の価値を測れない大人たちを王子は様々な星で見てきた。

それは「ぼく」も同じ。

ボアがゾウを呑み込む絵を、大人は誰も理解しなかった。

みんな目に見える形だけで「これは帽子よ」と判断し、言い切り、決して本質を見ようとはしてくれなかった。

そんな大人たちの悲しさ、浅さ、虚しさをこれでもかというぐらいついて来るのが、このキツネの言葉だ。

 

確かに、キツネの言う通りだ。

本当に大切なことは目には見えない。

心でしか見えない、心でしか感じ取ることができない、そんなものこそが、人間にとって一番大切で重要なことだ。

「飼い慣らしたものには、永遠に責任があるんだ」って言葉にも心打たれたな〜。

一度は絆を深めたのに、何かうまくいかないことが起きたら、簡単にその関係を諦めてしまう、そんな人は多いと思う。

でも、キツネの言葉は、すごく大事なことを教えてくれる。

一度関係を築いたのなら、責任があるんだ。

大事にする、守っていく責任が。

それをないがしろにしている人間がいかに多いことか。

君はそうなってはいけないよ、そう言って、キツネは王子と別れた。

 

すべての王子の話を聞いた「ぼく」。

井戸の水を飲みに行く場面では、王子がまたこんなことを言う。

 

"People where you live," the little prince siad, "grow five thousand roses in one garden...yet they don't find what they're looking for..."

"They don't find it," I answered.

"And yet what they're looking for could be found in a single rose, or a little water..."

"Of course," I answered.

And the little prince added, "But eyes are blind. You have to look with the heart." (71)

 

何千ものバラを育てていても、人間たちは、自分が求めているものを見つけ出せない。

本当はたった一輪のバラの中に、求めているものは見つかるのに。

でも、目では見えないから。心で見なきゃダメなんだ。

キツネの教えを王子は心にしっかりと大切に抱いて、殺伐とした地球に生きる「ぼく」に託してくれた。

つまらない大人ではないけれど、でもどこかでそうなりかけていた「ぼく」に、本当に大切なことを王子は教えてくれた。

 

最後、王子は星になる。

私は、このエンディングが悲しすぎて辛い。

王子はやっとバラとの関係を、その本質を理解できたはずではないか?

星を出て行ってしまった時は、王子もまだ未熟だった。

キツネが教えてくれたことを知らなかった。

関係を保つことが難しくなったら、向き合うのではなく逃げてしまった。

 「ぼく何もわかってなかった、バラの言葉ではなく、行動で判断すればよかった」

やっとこの真理にたどり着くことができたのに。

でも・・・

王子はあの後本当にバラに再会できたのだろうか?

 それとも・・・。

もし、本当に星に帰ることができたのであれば、きっと王子はバラを今までになくいつくしみ、大切にしただろう。

バラだってきっと・・・。

 

悲しいと思うのは、王子が本当に星になってしまったのではないかと思うからだ。

バラとも再会できなかったのではないかと。

そう思うと、本当に悲しいエンディングになってしまう。

それでも、希望としては、やっぱり王子は自分の星に戻れたんだと信じたい。

そして、またあの星で、大好きで大切なバラと今度こそ本当の意味で、一緒に過ごしていくのだと。

 

この作品は、可愛らしい挿絵もあり、 1日で読み終えてしまえるほどの分量で、子供向けの童話のような趣もあるけれど、内容はどこまでも大人向けだ。

目先のことにしか興味のない大人、つまらない大人、大切なことを見ようとしない大人、数字やお金、外見でしか判断できない大人、悲しい大人、虚しい大人、そんな大人たちを批判すると同時に、そんなつまらない大人たちの中で、もがきながら、そして真実を見極めようとしながら生きているごく少数の大人たちを慰め、勇気付けてくれているようにも感じる。

人間関係にフォーカスしているのも確かだ。

特に、キツネが教えてくれたことはまさにそれだ。

家族、友達、恋人、どんな形であれ、私たち人間にとって一番大事でなおかつ一番難しいのはこの人間関係ではないかな、と思う。

大好きな人がいても、ほんの少しのすれ違いで別れてしまったり、逃げ出してしまったり。

でも、相手のことを本当に愛していれば、相手が自分にとって唯一無二の存在だってことにしっかりと気づくとができれば、もう一度相手との関係を見つめ直すことができるのではないだろうか?

 

サン=テグジュペリは、飛行士であったから空を飛びながら、星空を眺めながら、地上を空から見下ろしながら、人間の虚しさを思っていたのかな。

たった一つの愛するものを見つけたら、それだけで世界は見違えるほど美しく見え、心は満たされ幸せになれるのに、多くの人間はそんなものには目もくれず、決して幸せにはなれないようなものにばかり執着している。

 

王子とバラの関係と、王子とキツネとの関係、そして王子と「ぼく」の関係を通して、サン=テグジュペリは人間が忘れている、いや、そもそも知ってさえいない、生きていく中で大切なことを教えてくれているのだろう。

世界文学に残る名作は、何度読んでも読みきれない、悲しいほどの真実を私たちに教え続けてくれている。

 

The Little Prince

The Little Prince

星の王子さま (集英社文庫)

星の王子さま (集英社文庫)

 

フラナリー・オコナー全短編 by Flannery O'Connor

アメリカの短編小説作家、フラナリー・オコナー

最近まで、男性かと勝手に思ってたけど、女性作家だったんだ。

なぜ、読もうと思ったかというと、

「善人はなかなかいない」という短編を読んでみたかったがため。

この特異なタイトルに惹かれて。

 

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で、まあ全短編集なので、分量はかなりのものだった。

読むのが大変だったー。

短編集だから、一つ一つは長くないんだけども。

全部で27作品入っています。

 

いっぱいありすぎるので、一つ一つに対する感想なんぞとても書ききれないが・・・。

いくつかピックアップしていきましょう!

 

「善人はなかなかいない」

まずはやはりこれから。

彼女の作品でも知名度高くて、代表作といっても良い。

この作品目当てで読んだので、期待してたんですけどね。

ええ!こういう話なの!って感じでした。

思ってたのと全然違ってた。いや、違いすぎた。

これが、一番初めに載っている話なので、いや、この人の作品ヤバイかも・・・って不安になったぐらい。

勝手に、良い話だと思ってたんだけど、真逆だった。

ひどい話だ。

 

おしゃべりなおばあちゃんは孫らを連れて、ドライブへ。

その途中、はみ出しものと呼ばれる脱獄犯に遭遇してしまう。

最初は誰も気づかなかったのに、おばあちゃんは気づいてしまう。

しかも、気づいたことを本人に言ってしまう・・・。

おばあちゃんは、善人、と自分では思っているのだろう。

自分や家族の身が危ないことを察してか、必死にはみ出しものに、キリストの教えだったり、聖書のことを説いたりして、相手をなだめようとする。

でもさ、会って数分の人間、脱獄犯の心を溶かそうだなんて、おばあちゃんそりゃ聖人ぶりも甚だしいよ!

 

とにかく、結末はどうとも言えないが、こんな話だったなんて・・・と呆気にとられてしまった。

悪人(脱獄犯)と善人ではない普通の人々、あえて善人ではない、と言っておこう。

何だろうか、おばあちゃんはもちろん、いい人ではあるのだろう、しかし言うなればお人よしか。

脱獄犯を見て、普通なら家族の身を守る事を最優先しないか。

それを相手の心を変えようと挑戦しちゃうあたりに、人間としての甘さを見た。

 

ああ、でも、この作品でオコナーが言いたかったことはよく分からない・・・。

 

「人造黒人」

すごいタイトルの話だが、内容はまあまあかな。

ミスタ・ヘッドという老人と、その孫ネルソンがアトランタへ旅へ出る。

このヘッドというじいちゃんが、黒人差別主義者。

オコナーはアメリカ南部出身の作家であるため、南北戦争の敗戦とか経験している白人である。

で、彼女の作品にはこれでもかというぐらい、黒人差別主義者の白人たちがうじゃうじゃ出てくる。

どんだけ意識してんの?っていうぐらい、常に黒人のことを気にしている。

いじめを拡大したら差別になると思っているが、人種差別は大きないじめだ。

いじめの発端は、そもそもいじめる側がいじめられる側を馬鹿なぐらいに意識していることだ。

相手をどうでもよいと思って気にしていなかったら、そもそもいじめる対象にすらならないじゃないか。

というわけで、読んでいて胸糞悪い差別主義者たちのオンパレードである。

話が逸れたが、このじいちゃんもそんな人間の一人。

ただネルソンは違う。

これまた、彼女の作品では老人とか中高年以上の人間は差別主義者なんだけど、子供とか若者はそうではない、っていうパターンが多い。

 

で、旅の途中に誤って黒人の多い街へ迷い込んでしまう二人。

ネルソンはそうでもないかも、だけど、じいちゃんの方は結構焦る。

アウェイ感が半端ないのだろう。

これもまた、最後に結構重く来る話。

短編ってこういうのが多いよね。

短いだけに、オチであっと言わせるものが多いのかな。

オコナーは、おそらくだけど、人種差別主義者たちを快くは思っていないだろう。

かと言って、その立場が曖昧なのも確かだ。

作品だけを見ると、差別主義者たちが幸せに終わる!というものは皆無と言ってよいから。

かと言って、はっきり断罪しているわけでもないし。

うーん、難しいところだ。

 

「田舎の善人」

聖書を売りに来る青年とその家にいる娘ジョイを中心にした話。

ジョイは事故で片足をなくし、義足である。

最初こそ、ジョイはこの青年に対して良い印象を持たなかったけど、気まぐれのためか、ふわっとついていってしまう。

これが仇となった。

聖書を売りに来るときは、キリストの教え、神の教えを聖者さながら説いては、聖書の重要さ、信仰の大切さを伝えて来る。

真っ白な好青年とでも言えようか。

ジョイと二人きりになったとき、青年は本当の顔を見せる。

これまた、結構怖い話だ。

 

一つ面白いと思った場面。

 

ミセス・ホープウェルにはこれといって欠点はない。

他人の欠点に不満を感じないですませるには、その欠点を建設的に利用するにかぎる。(191)

 

こんな考え方もあるんだな、と感心した。

他人の欠点って大きく見えがちだけど、欠点を欠点として捉えるとしんどい。

欠点なんてそうそう簡単には直らないんだから、直す必要も無いのかも?しれないが、それならむしろ利用してやろうじゃないか!と。

ただ、短気な欠点をどう建設的に利用するのか、とか怠け癖はどう利用できるのか、とかいざ考えて見るとなかなか難しそうだけど。

 

あとは、やっぱりジョイが弱かったかなー。

なんで会ってすぐの青年を信じちゃうかなー。

二人っきりで会うには早すぎる。

ただでさえ彼女には足のこともあり、自由には振る舞えない部分だってあるのに。

 

オコナーの作品では人の裏の顔を暴くものも多いです。

怖い話が多いんですよ、本当に。

 

「強制追放者」

ある農家を経営する女性ミセス・マッキンタイア。

黒人を雇っているが、あるときポーランドからの難民一家を受け入れることになった。

ナチス迫害を受けた人々だ。

また、同じく雇われているショートレイ夫妻もいる。

ミセス・ショートレイとミセス・マッキンタイアはともに、差別主義者。

ポーランドから逃れてきた一家を、疎ましく嫌悪感を持って接する。

彼らがかなり仕事ができるということも彼女たちの気に障る。

 

アメリカにおける差別は、黒人差別に限らない。

今日、移民政策が厳しくなったことを考えれば、この作品の重要性も帯びて来るだろう。

移民への差別主義というのもまた甚だしいのだ。

それは黒人差別とはまた違った種類なのかもしれない。

わからない、所詮黒人差別をする人間は、黒人を下に見ている。

下に見ているからこそ、差別する。

しかし、下に見ることで優越感に浸れる。

そういった意味で、黒人たちは彼女・彼らにとって必要なのだ。最悪だが。

しかし、移民となるとまた話が違う。

彼らは、今回でいうとポーランド人は、人種としては大きな差がない。

彼らもまた白人だ。

しかも、仕事がめちゃくちゃ出来るとなれば、下に見ようがない。

それでも必死に、言葉や文化の違いからくる摩擦を理由に、彼らを差別しようと躍起になる。

 

最終的にある悲劇が起こったことで、この問題は収束する。

その収束の仕方は決して快いものではない。

悲劇で全てが破壊されて終わり、そんな感じだ。

 

最初こそ理解しあえず、反発し合っていたが、最後にはお互いを理解できた。

そんなお話は、オコナーは全く興味がないのだろう。

とにかく、人間の醜さ、罪悪、偽善などを描くお人なのだ。

それゆえ、読んでいると気分が沈むものが大半だ。

 

私は難民問題に関心を持っている。

難民と移民は別物だが、今回の移民をテーマにした「強制追放者」も興味深かった。

アメリカでも移民・難民差別はある。

残念ながら日本ではもっとひどい。

日本はそもそも難民受け入れをしない。

先進国の受け入れパーセンテージは最下位だ。

日本人にも、他民族を受け入れない、という外国人嫌悪はある。

声を大にして言わない人が多いだけだ。

この外国人嫌悪をなくさない限り、世界は一向に明るくならないだろう。

難民問題に今後も取り組んでいかなければならない、その決意を強くした次第だ。

 

「障害者優先」

最後に、この話。

一番印象的で考えさせられたのはこの話かな〜。

シェパード、その息子ノートン、そしてシェパードが気にかけている少年ルーファス・ジョンソン。

シェパードは市のリクリエーション指導者、で少年院でカウンセラーをやっている。

ルーファス・ジョンソンが少年院にいる頃から、目にかけ優しく見守ってきた。

またルーファスは足が悪いというのもシェパードが特に気にかけている理由の一つだった。

対して、息子のノートンだが・・・。

実は知恵遅れである。

利己的な性格、だと父親は考えている。

でもまだほんの子供だし、それはこれから教育していけばいいのでは?と私は思ってしまうが、実の父親であればそうも安心していられないのかもしれない。

必要以上に辛く当たるような場面もある。

シェパードは温厚で優しい人だ、だから決して手をあげたりはしないし、きつい言葉もかけないが、心の中では、ノートンが思う通りの少年に成長していないことへの焦りや不安、イライラが見えてくる。

 

そんな父親はルーファスに家の鍵を渡し、いつでも家に来ていいと伝えてある。

少年院に入っていただけあって攻撃的でぶっきらぼうな態度もあるが、根は優しいと信じている。

自分が気にかけ、優しさと愛情で接していけば、必ず彼を改心させられると信じて。

ノートンも、ルーファスと暮らすことで利己的な性格を変えていけるだろう、そんな希望も持って。

 

しかし、今作もまた悲劇で終わる。

その悲劇は、ここではあえて書かない。

オコナー全短編の中で、一番の衝撃といってもいい結末だ。

 

まさに、オコナーの描きたい、偽善者たる姿がシェパードの姿で迫って来た。

そう、シェパードは偽善者なのだ。

本人は善意の塊で、ルーファスを救いたいと思っているし、その気持ちに嘘はないだろう。

ルーファスが家に来た時、飛び上がるように喜んだし、嬉しくて嬉しくて仕方なかった。

この少年を改心させられるかもしれない!この少年に家庭の温かみを与えられるかもしれない!

でもそれは彼の独善では?

ルーファスが本当に望んでいることとは?

ましてや実の息子のノートンは?

 

自分は良いことを行なっている、というこのうぬぼれこそ、全ての元凶だ。

オコナーは、そういった決して悪人ではないものの、善人と自負する偽善者たちへ厳しい目を向けていたのだろうか。

 

以上、27作品のうち、5作品のみピックアップしてみた。

他の作品も、大方差別主義者や偽善者たちの話だ。

正直、私はオコナー作品を好きになれなかった。

読んでいてしんどい、胸糞悪くなるものが多いからだ。

人間の悪、偽善、浅ましさ、底の浅さ、醜さ、そういったものにフォーカスしているのだから仕方がない。

私は、それよりも希望を描いた作品が読みたい。

人間の生きるこの世界、悪で蔓延っているのは事実かもしれないが、それでも本当の善人はいる。

ごくごく稀だけど。

それに、誰からも認められるような善人でなくても素晴らしい人だっている・・・。

 

暗い話、嫌な話がお好きな人にはたまらない作家かもしれない。笑

 

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈上〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

 

崩れゆく絆 by Chinua Achebe

ナイジェリア出身の作家、チヌア・アチェべの代表作を読みました。

初めて読む作家です。

 

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この作品も最近まで全然知らなかった。

海外では非常に有名らしいけど。

日本における海外文学の認知度と海外のそれとは結構な隔たりがあるんだなーと言うのを最近より一層強く感じます。

本屋でも小説や文学として売れるのは、ほとんどが日本のもの。

もちろん、日本の小説や文学って素晴らしいものはいっぱいある。

でも、海外のものももっと読まれてほしいって言うのはやっぱり感じる。

みんなもっと読もうぜ!!!

 

あらすじ

古くからの呪術や慣習が根づく大地で、黙々と畑を耕し、獰猛に戦い、一代で名声と財産を築いた男オコンクウォ。

しかし彼の誇りと、村の人々の生活を蝕み始めたのは、凶作でも戦争でもなく、新しい宗教の形で忍び寄る欧州の植民地支配だった。

「アフリカ文学の父」の最高傑作。

 

あらすじを読んで抱いた印象と実際の感じは、言葉で説明するのは難しいが、なんだか違っていた。

私の完全個人的意見なのですが、光文社文庫の古典シリーズって、翻訳がどれもこれも淡白な印象があるんですよねえ。

当然、作品によって翻訳者は違うし、色んな翻訳者の色んな作品を光文社でも読んでいるんです。

なんと言うか、事実を淡々と述べる文章が多いような気がするんです。

それが悪いとか良いとかはないし、好みは人それぞれですけど。

私の好みは、もっと文学的で、重みや深みのある翻訳なんですよねー。

 

内容の重厚さと、翻訳の淡白さがちょっとミスマッチな気はしてしまう。

光文社から出てるシェイクスピアも結構読んだけど、これもそう感じたなあ。

大分話が逸れているが、翻訳ってのはその作品そのものを表すイメージになるから、好みって大事なんだよねえ・・・。

 

アフリカが植民地支配される以前、その土地の伝統的な社会、文化、慣習に深く根ざした物語。

神の概念など、欧州のそれとは全く異なっている。

日頃、キリスト教の教えなどは日本でも広く知られているし、海外文学を読めば、キリスト教の文化というものはよく読むものだから、ここに関する知識や免疫というものはかなりついている。

しかし、それがアフリカのある土地の伝統的な信仰となると。

あまりに異質で、慣れないものだから、読んでいても、理解するのに時間もかかるし、苦労した。

チ(良い守り神)というものが何度か出てきたり、双子は邪悪だから捨てられてしまう、などの野蛮な慣習があったり。

それは彼らの文化であり、信仰であるのだから、否定できるものかというと、難しいけど。

うーん・・・なんだかなあ。とも思ってしまうんですね。

 

オコンクウォは結構な男です。

村人からは尊敬されているし、強くて勇者なので、女性からもモテるような描写もあります。

妻は3人おりますし。

しかし、私はあまり好きなタイプの人間ではなかったですね。

男性性への意識が強すぎるのです。

女々しいものへの嫌悪。

女性蔑視もあります。

もちろん、彼だけのせいではなく、そうさせる社会がある。

男性優位の社会が。

妻を殴るわ、殺そうとするわ、男としてのプライドにちょっとでも傷をつけられそうものなら、肉体的にどう考えても弱い妻を殴りまくるんですもの。

なんて、小さい男じゃないですか。

 

イケメフナという少年が出てきます。

彼は、オコンクウォの実の息子ではありませんが、別の家族から引き渡され、実の息子として育てていました。

オコンクウォ自身には、何人か子供がいます。

実の息子ンウォイエは、イケメフナとうまくやっていたし、イケメフナも最初こそは、母親と妹を想って泣いていたけど、そのうちオコンクウォ一家との生活にも慣れて、恵まれた環境で幸せに暮らしていたのです。

でも、ある時悲劇が起きる。

これもまた、土地の慣習によるもので、イケメフナは殺される運命になってしまうんです。

は!?なんで!?

と読んでいて、怒り心頭でしたが。

オコンクウォはイケメフナを実の息子のように愛しているけど、村の掟に逆らえない。

イケメフナが死ななければいけないその日、ほかの村の男たちとともに、彼を連れて行きます。

その途中、イケメフナは自分が襲われると気づき、とっさにオコンクウォにすがりついて助けを求めました。

しかし・・・

オコンクウォは、イケメフナの示す情愛に応えることは男として最大の恥、弱みを見せることだと思い、自らイケメフナを殺めてしまうのでした。

衝撃的なシーンでしたね。

 

愛した実の息子にも等しいその少年を、自分のプライドのために殺した。

私は、この瞬間、オコンクウォの中で何かが崩れ落ちたような気がしてなりません。

それこそ「things fall apart」の一部分はここなのではないか、と思ってしまう。

 

その後、オコンクウォは別の場面で、誤って殺人を犯してしまいます。

持っていた銃が暴発してしまって、それが村人に当たってしまったという不幸な事件です。

殺人自体はどんな理由であれ犯罪は犯罪。

ただ、処刑されるということは免れました、その代わり、一族を追われることになりました。

家族とともに、オコンクウォは母の土地へと去りました。

 

その間なんと7年間。

7年もの間、オコンクウォは家族とともに、一族から離れて暮らさねばなりませんでした。

そしてこの7年の間にこそ、欧州の植民地支配が始まり、キリスト教を中心に、村の一族の文化、慣習、社会そのものが崩れていってしまうのです。

 

キリスト教の新興は、オコンクウォをはじめとする伝統を重んじるタイプの人間にとっては面白くないどころか、屈辱ですらあったと思います。

このキリスト教の宣教師が、宗教を広めていくに当たって、非常に興味深く感じたシーンがあります。

 

賎民であるオスと呼ばれる人々もまた、キリスト教に救いを求めましたが、果たして彼らを受け入れるべきか否か、という問題が起こったのです。

 

「神の御前では、奴隷も自由民もありません。わたしたちはみな神の子です。ですから、この兄弟たちを受け入れなければならないのです」

「あなたはわかっていない」改宗者のひとりが言った。

「われわれがオスを受け入れたと知ったら、あの異教徒たちはどう言うでしょう。きっと笑いものになりますよ」

「では笑わせておきましょう」キアガ氏は言った。

「神は裁きの日に、彼らをお笑いになるでしょう。なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。天に座する者は笑い、主は彼らを嘲られるであろう」

(238ー239)

 

オスは社会の除け者。自由民との間には大きな隔たりがある。

つまりは被差別民族である。

そんなオスを、教会が受け入れるということは、自由民とオスとの間の隔たりはなくなっていく事を意味する。

この発言をした改宗者は、差別主義者だから、汚らわしいと彼が感じているオスと自分自身が同じ宗教を信仰し、分け隔てなく平等に接していくことが嫌だったのだろう。

結局彼は、オスを受け入れるなら一族の元に戻ると言い捨てその場を去ったが、キアガ氏も譲らずその男のさせたいようにさせてしまった。

キアガ氏は宣教師のひとりだ。

が、キアガ氏のこの堅固な意思こそが、他の改宗者たちの自信を生むことにもなった。

 

ここの描写から見ると、差別をよしとしていた一族の慣習を大きく脱却したキリスト教の行いは偉大であるように感じたし、描写自体非常に前向きで、キアガ氏をよく描いていたと思う。

ただ、実際アチェべが、キリスト教に対してどれほどの思いを抱いていたのかは分からない。

所詮、植民地支配のためのきっかけに使われたにすぎない、そんな読み取りも今となってはできてしまうのだから。

 

さて、植民地支配により、一族の生活は大きく変わり、最大はやはり伝統的な信仰からキリスト教への移行だろうが、良く言えば文明化されていった。

そんな中、最後まで伝統を守り抜きたかったオコンクウォをはじめとする男性たちは迫り来る欧州の圧迫に立ち向かうのだが。

 

最後オコンクウォはどうなってしまうのか。

ぜひ、読者の皆様に小説で読んでいただきたい。

 

本作の原題は、“Things Fall Apart”である。

 これはW. B. イェイツの詩「再臨」(The Second Coming)の引用である。

この詩は、留学時代に読んだので非常に思い出がある。

イェイツの詩集も今後ちゃんと読んでみたいな〜。

 

あと、コンラッドの作品『闇の奥』も読みたくなった。

というのも、アチェべは傑作と称される上記作品を真っ向批判したと言うからだ。

『闇の奥』も欧州のアフリカ植民地支配がテーマであるらしいが、イギリス人が描く植民地支配、アチェべが疑問に思う点は多いにあったのだろうとは想像に難くない。

 

崩れゆく絆 (光文社古典新訳文庫)

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